【「安楽」への全体主義】と【時間をかけること】 番外編3(藤田省三『全体主義の時代経験 (著作集6)』)

藤田省三『全体主義の時代経験 (著作集6)』(4)へ寄せて

 藤田省三デルス・ウザーラについて、「マルクス主義のバランスシート」で言及しています。
 デルス・ウザーラとは、20世紀初頭のシベリアに生きた漁師で、ロシアのシベリア探検隊の案内を引き受けた人物です。
 「食いものを獲ったら皆んなに平等に分配し、楽しく会話するし、誰がここを歩いたかも足跡で判る知恵も」あるような、「共同社会」こそが、つまり、ある限定された場所において、「精通、熟知し、それと深く付き合うことを通して生きるという状態が一番望ましい」と、デルス・ウザーラに言及しながら、藤田は述べています。
 デルス・ウザーラへの言及は、きわめて重要です。「自然の中で生きるには、自然の残酷さも受け入れなければならない。」という、『コラム・イナモト』様の映画「デルス・ウザーラ」へのことばでも分るように、デルス・ウザーラにとっての自然というのは、残酷さ、いうなれば【他者性】を含むものでした。藤田が、これを【「安楽」への全体主義】に対置させているのは、言うまでもありません。デルス・ウザーラが生きた共同社会とは、残酷な相貌を時に見せる厳しい自然に対し、時間をかけて深く付き合う社会なのです。
 このことは、藤田が、自己の商品化の流れに対して「パーソナル・リレーションシップス」の可能な限りの復活を目指したことも、これとの関係から読み解けます。すなわち、【時間をかける】ことです。彼の言う、「パーソナル・リレーションシップス」とは、時間をかけて、「精通、熟知し、それと深く付き合うことを通して生きる」、他者との関係ではないでしょうか。他者を熟知するには、時間が必要だからです。その「他者」とは、外界との接触を断つためのカプセルのなかで、同じ目標へ向かう競合者のようなものとは違う存在です。
 時間をかけた関係の中で、「精神的成熟」は、なされていくでしょう。関係を結ぶのに伴うだろう軋轢を、かいくぐるのにも、【時間をかける】必要があります。(正確には、藤田省三は時間については述べておらず、「時間をかける」云々はこちらの「深読み」によるものであることを、注記いたします。)
 藤田は、ルソーを引いて、「政治は可能なかぎり小規模な、人間接触のできる範囲を守るように」したほうがよく、「それぞれに個人的な信頼関係とか愛情のダイナミズムの働く関係の中で生きて」る「パーソナル・リレーションシップス」が「できるだけ成り立つようにするのがいい」(187頁)と述べています。これも、議論に時間をかけ、「人間接触のできる範囲」で、信頼関係を試行錯誤を繰り返しながら醸成させていく関係のことのはずです。「個人的な信頼関係」には、十分な時間が必要だからです。
 【「安楽」への全体主義】というのは、このような【時間をかける】ことが難しくなった時代のことではないでしょうか。もちろん、ここで言う「時間」というのが、量的な時間ではないのは言うまでもありません。これは質的な密度とも言うべき持続の事を指しています。
 別に、【時間をかける】ために、過去へと復古すべきだ、というのではありません。ただ、【時間をかける】ことも、必要なのです。急く時間だけでなく、遅くてもよい時間も、必要なのです。

(続く)