「快楽による堕落」というイメージ、及び「労働」における苦痛 番外編4(藤田省三『全体主義の時代経験 (著作集6)』)

藤田省三『全体主義の時代経験 (著作集6)』(4)へよせて

 「快楽による堕落」というイメージについては、安楽への全体主義の後継としての【動物化】の議論にも同じことが言えるかもしれません。
 『受動的な健忘』様は、次のように述べています。

それでもオタクが「動物化」するという「政治的な動物化論」には、当初、単純な労働も、退屈な日常も、オタクという満足によって充足するという楽観論があったように思います。/さらに現在、格差社会を生み出しているネオリベラリズム新自由主義)でさえも動物化の「環境」とされました。多少貧しくても、好き勝手にやらしてもらえる「消極的な自由」によって動物化して充足するはずだと。

この点を、『受動的な健忘』様は批判的に検討していますが、これについては触れません。この文章で分るのは、動物化」をめぐる議論では、「単純な労働も、退屈な日常も、オタクという満足によって充足するという楽観論」があったということであり、「動物化」に関する議論では、【あくせく働く】という意味での「労働」が、きちんと捕らえられていなかったということです。
 東浩紀情報自由論第10回』を見てみましょう。東は、「労働とは、日々生きていくために行う必要不可欠な作業を指す。」と定義しています。そして、ハンナ・アレントの議論を応用して、「人間であることの意味が失われた行為を、彼女は広く「労働」と呼んだわけである。そこには、いわゆる労働だけではなく、日常の必要性を満たすための消費行動(衣食住)、さらには、そのような必要性から解放された趣味的な消費まで含まれている」として、【労働】について彼は以後、「労働=消費」と表記しています。
 ここからは、【あくせく働く】という意味での「労働」は、捕らえ切れていません。かろうじて、

情報技術革命は、勤務時間と余暇時間の境界をかぎりなく曖昧にしてしまった。ひとはいまでは、自宅や旅行先でも業務のメールを受け取ることができるし、逆に勤務先でも家族と連絡を取ることができる。その結果、余暇時間まで「労働」に組み込まれてしまうか、あるいは逆に、勤務時間をよりフレキシブルな「活動」に昇華させることができるか、それは個人の才覚にかかっている。

と、余暇の労働化という面を指摘していますし、「マルクス主義者は労働者の労働からの解放を訴えた。そしてそれは、表面的には、一九五〇年代のアメリカで達成され始めていた。」という言葉からは、彼が、【あくせく働く】という意味での「労働」を、無視していないことは伺えます。しかし、以後の「動物化」に関する議論からは、この視点が薄れていきます。
 「現代日本教養論  (第2回)「動物化」論をめぐって」(『東洋経済オンライン』)での、山形浩生

東浩紀の「動物化」論では、アニメなどの二次元の世界にはまって、オタク化してゆくことを「動物化」と呼んでいます。人が社会に出て、職業に就いたり、女の子とデートをしたりすると、いろいろなしがらみを考えなければならなくて、とっても面倒くさい。だから、ボタンを押せば可愛い女の子が画面に出てきて、それを見て「萌える」という、刺激に対する単純な反応の世界に人々は落ちていく。これが最近の傾向だというわけですね。

という的を射た要約も、就職という点については触れていますが、その就職にまつわる諸々の困難や、労働それ自体の困難については、言及されません。たいていのオタクは、「萌える」費用のためにあくせく働いて、しがらみや面倒くささを我慢している、という【現実】は、見過ごされてしまいます。萌えていようがいまいが、人は労働に伴う苦痛から逃れられません。社会からドロップした後の苦痛からも。
 これは山形の思慮のなさによるものというより、「動物化」に対する議論自体がはらむ特性によるものでしょう。
 東浩紀大澤真幸の共著(対談)『自由を考える』において引かれた主題が、「防犯カメラ」、「クレジットカード」、「電子乗車券」、「携帯電話」、「ネットショッピング」、「マクドナルドの硬い椅子」といった、殆ど消費者としての主題ばかり出現だったを、いまさら述べるまでもないでしょう。無論、上記の主題から、【労働】の側面を論じることも可能でしたが、『自由を考える』では、殆ど話題になっていません(記憶にある限り、存在しません)。
 以上、【安楽への全体主義】にも、【動物化】にも、ともに、それが論じられたとき、【あくせく働く】という意味での「労働」のことが、見過ごされていたことを、指摘してきました。もちろん、『自由を考える』より後の東浩紀の議論には、「労働」への視点が出現してくるはずですし、論壇などで「労働」に関する問題が頻繁に論じられるようになった現状では、「労働」と「動物化」とをつき合わせる発想は決して珍しくないはずです。
 しかしここでは、そのような先まで進まず、【安楽への全体主義】も【動物化】も、その議論における【快楽による堕落】というイメージが、【「労働」における苦痛】という面を覆い隠したことを確認して、話を終えたいと思います。

(了)