【自己責任論=精神論】と「濫給」問題 湯浅誠『本当に困った人のための生活保護申請マニュアル』(5)

■マクロ経済からの視点■
 ならばどうすればいいのでしょうか。「自己責任論批判の作法と戦略」(『こら!たまには研究しろ!!』様)の意見は、これまでの説得法とは別のものです。「若年失業率がこれほど高く,有効求人倍率も悪化の一途をたどるなかでは全員が死ぬほど努力しても「失業しちゃう人」はいる.その意味でマクロの自己責任論にはなんの根拠もないわけです.」というご意見です。そして、自己責任論を、「今年のクラス目標は"全員がクラス平均以上の点を取ること"だ」という主張にたとえています。
 なるほど、この意見は使えます。マクロな視点から、社会全体として、失業者が出てきてしまうことの必然性を、例えも使いながら語るという、素晴らしい方法です。
 仮にBさんとDさんが、【いや確かに、社会的にはそうだろうが、それでも君の努力不足も事実だ。】というかもしれません。しかし、マクロの視点を考えれば、這い上がれるパイは限りがあるのですから、少なくとも、彼らの自己責任論が使えるのは、一人ひとりの具体的な個人に対してのみ、となります。「自分はできた」は、使いにくくなります。
 つまり、社会的にはそういう状況もやむをえないことを、自己責任論者は認めざるを得ないのですから、社会一般の「若者」に、自己責任論は使えません。使えるのは、一般の「若者」や貧困にあえぐ人々ではなく、一人ひとりの具体的な個人に限られるのです。
 具体的な個人には、【社会一般の人たちについてはそのとおりだが、他のやつはともかく、お前個人については努力が不足しているのも事実だ。】という反論はできます。「自分はできた」と。具体的な個人に対して、まだ自己責任論を吹っかける人もいるでしょうが、阿呆な自己責任論の出鼻をくじくことができただけでもいいとしましょう。「失業者」・「貧困層」全体に、もうこの自己責任論は使えません。
 それにしても、自己責任論というのを抑えることは難しいです。先に書いたとおり、自己の努力の要素というのは、外部の諸条件を除いた「残り物」なので、この最終兵器を濫用すれば、たいていの暴論も可能なのです。【自己の努力】という最後の切り札を、自己責任論は錦の御旗の如く濫用している、という構図です。
 「この精神論者め。旧日本軍じゃないんだぞ」みたいな罵声なら効果はあるでしょうか。要するに自己責任論は精神論なんですね。理屈が通じないはずです。

生活保護における「濫給」の問題■
 最後に、先の『紙屋研究所』様は、著者の「必要のない人に支給されることを『濫給』と言い、本当に必要な人に行き渡らないことを『漏給』と言うが、一万四六六九件の濫給問題と六〇〇〜八五〇万人の漏給問題と、どちらが問題として深刻か、見極める必要がある」という言葉も載せています。四捨五入しても甘く見積もっても、2対600の圧倒的な差です。
 『濫給』を指摘される方の身の回りには、「必要のない人」が多く周囲にいて、「本当に必要な人」は周囲にいないのでしょうか。前者が1人いたら、後者は300人いるはずですので、せめて1割でも探してみてはいかがでしょうか。やらないのは努力不足です。がんばれ。

(了)


(追記) 本稿を要約すれば、「椅子の数の方に注目すれば必ず2人は座れないわけで、2人の問題ではなく、椅子の数の問題になる。」となります(「貧困と格差は中間層・高所得層の死亡率も増加させる」『すくらむ』様)。個々人の能力という側面はありながらも、この問題は社会全体の問題に帰結します。