ニ・ニ八事件と共産主義者たち 本田善彦『台湾総統列伝』(4)

■ニ・ニ八事件、及び相互不信の問題■
 本書でも、ニ・ニ八事件は取り上げられています。本件のいきさつについて、引用できるものを孫引きしようと思います(矢吹晋映画「悲情城市」と田村志津枝著『悲情城市の人びと』」(『蒼蒼』98 年 2月10日、逆耳順耳))。

陳儀による政権接収、駐留軍による権力を乱用しての汚職、治安の混乱、それに台湾の人びとの歓迎から失望、失望から怒りへと変化した被害者心理が加わり、その両者が上下にぶつかりあった結果、ヤミたばこ取り締まりの衝突が起こる。それは「役人の抑圧に耐えかねた民衆が反逆に立ち上がった」典型的な事件であり、二・二八の流血の悲劇は民衆が追い詰められた結果引き起こされたものである」(林書揚「二・二八的省思」『従二・二八到五〇年代白色恐怖』時報文化出版、九二年)。

 簡潔かつ必要最低限に要約をするなら、上記のようになります。
 当初、台湾の人々は「中国」への復帰を歓迎したのですが、支配を開始した国民党の腐敗に徐々に批判が高まっていき、そして起こったのが、ニ・ニ八事件でした。この事件によって、少数派でありながら支配者側となった外省人と、多数派でありながら被支配者側へ固定された本省人の対立は、決定的なものとなってしまいます(この不均衡を、「省籍矛盾」と呼びます)
 この問題の背景には、「大陸」の人々の台湾人観、すなわち台湾の人間は日本の皇民化(=「奴隷」化)教育を受けていたと見なしたことによる、非「中国」人だとする一種の不信感があるとされます。あけすけに言うなら、大陸から来た支配者には、日本統治下にいた人々を仲間と見るのが、困難だったわけです。本省人側の新しき政治への期待と直後の失望、外省人側の台湾の人々に対する不信感、これらの相互不信が、この事件の原因の一つであるわけです。

台湾共産党員、という歴史的課題■
 ただし著者は、ニ・ニ八事件は国民政府及び大陸側への抵抗だという論に対して、注意を述べています。というのも、実際のところ、ニ・ニ八事件で抵抗したメンバーのなかには、台湾の「共産主義者」が少なからずいました。ところが後世、民進党の主席だった陳水扁は、ニ・ニ八事件の式典でこれについて伏せています(279頁)。
 ニ・ニ八事件で最も激突が激しかった南部・嘉義での記念式典で、この時の指導者が共産党地下組織の武装工作部長であった張志忠であったことには触れていません。また、中部の南投県・哺里での選挙活動中、ニ・ニ八事件について煽りましたが、この場所で戦闘を行ったのが中国共産党の地下組織であった事には一切触れません。
 本事件における「共産主義者」の存在は、非常に微妙な問題です。戦後、中国共産党は地下組織を通じて台湾での活動を展開して、国民党に反発する知識人を吸収しようと試みます。李登輝もこの地下組織に加入していました(15頁)。
 当時、蒋介石側は、台湾共産党が大陸側の指令を指令を受けて扇動した、と決め付けて主張していました。弾圧の側が、これに疑心暗鬼になっていた側面もあったようです。対する中国共産党は、毛主席の影響による革命闘争と述べていました。しかしこの事件は自然発生的なものであり、あくまで共産党の蜂起は二次的なものでした(278頁)。しかし、このことは民進党の主張を濁らせる効果を持つわけです。
 台湾独立派の主張は上二つとさらに異なり、国民党政府に圧迫された「台湾人」が、国民党(ひいては大陸側)へ抵抗した、という主張をとります。上記陳水扁の主張、国民政府及び大陸側への抵抗という論は、これに由来します。ところが、「共産主義者」がいたということは、民進党にとって、先の反論をなすのに都合が悪いわけです。
 本事件において、「共産主義者」の存在をどのように事件の中に位置づけるのか、という歴史的課題がここにあるわけです。台湾において、彼らの存在をきちんと位置づけられる日は、来るのでしょうか。

(続く)