多文化主義の弱点と、世界の首都 蓮實重彦・山内昌之 『われわれはどんな時代を生きているか』(1)

蓮實重彦/山内昌之 『われわれはどんな時代を生きているか』講談社 (1998/05)

 本書は、フランス文学者であり映画批評家である東京大学学長(当時)と、同大学のイスラーム史を専門としながらもそれ以外の分野にも博学で知られる教授による、「往復書簡」ともいうべきものです。言及したい話題が豊富ですので、章の順を追って書いていきたいと思います。基本的に本書は話題がズレながら進んで生きますので、ついていくのは思いのほか大変です。

多文化主義の弱点としての「人種主義」■
 第一章で山内は、多文化主義がフランスの国民戦線のようなタイプのレイシズムに対抗できないことを、論じます。多文化主義では「差異」の尊重は、そのまま「差別」への許容にすり替えられる、と(注1)。「差異への権利」は、差別を助長する方向と、差別に反対する方向との両方に使われてしまう、というのです。
 国民戦線の論法とは、【マイノリティの権利が尊重されるのなら我々多数派も権利を尊重されるべきであり、尊重されるには国内にいるマイノリティは国に帰って(無論強制的に)、お互いの文化の尊重をし合おう】、という理屈でまとめられるでしょう。(この党については、 畑山敏夫『現代フランスの新しい右翼 ルペンの見果てぬ夢』等をご参照ください。)互いの差異を尊重するために、互いに隔離し合って、融合や混交を忌避しているのです。これの極端なものが、アパルトヘイトといえるでしょう。
 この党の方針、「小さな政府」政策と移民排斥路線の矛盾という点はさておいて、二点、本書で言及すべきことがあります。
 第一点は、1970年代の調査において、「ユダヤ人と北アフリカ人に対する敵意は主として労働者と退職者にあることが指摘されている」(18頁)という点です。彼らの既得権を奪われるという恐怖が、人種差別の種子を植えつけた、というわけです。「弱者」こそ、別の「弱者」を憎悪・排斥する、という事例といえるでしょう。弱い者達こそが、夕暮れに、さらに弱い者をたたくというわけです。(注2)
 第二点は、「日本のように同質性の高い社会では、ルペン以上に巧妙な論客が生まれるだろう」(19頁)と山内が述べている点です。もちろん、現在の日本における外国人に対する湿ったレイシズムは、甚だしいものがありますが、ルペン以上に「巧妙」な論客となると、2009年現在でもいないかもしれません。少なくとも、移民排斥を”第一”として票を伸ばす党が、未だにないからです。いるかもしれませんが、大半は「巧妙」とは程遠い無才ばかりでしょう。

■1940年代のロサンジェルス、あるいは世界の首都■
 第二章で蓮實は都市における、多文化の如何わしささえ漂う「共存」をもって、山内に返答します。もし21世紀の批評家が、20世紀の「世界の首都」について論じるとすればどんな都市か、と仮定する蓮實は、1940年代のロサンジェルスを挙げます
 思いもかけぬ出会いに満ちたハイブリッドな構成をもつ、国籍や人種や職業などの違う人々が群集の一人として行きかう都市。このような都市は、同時代にパリやモスクワや上海などにも見られる特色ではありますが、資本主義という始末におえないシステムのなかで、人類の思考を嫌でも標準化させる「商品」の暴威を鑑みて、その最たるロサンジェルスこそ、「世界の首都」なのです。この危うい魅力に溢れた「国内植民地としての西海岸の都市」(32頁)において、資本主義による文化の商品化は、知性と感性の大掛かりな変容を日常化させていました。
 「世界の首都」たる都市ロサンジェルスのハイブリッド性、その驚嘆すべき共存について蓮實は、その豪華な面々を列挙することで論じます。彼らはロシア訛り、ドイツ訛り、フランス訛りの英語で共存していたといいます(39頁)。

(続く)



(注1)多文化主義」に触れる以上、西川長夫のいうように、「多言語主義」についてはふれずには、いられません。これについては、後の記事、「【正しい】母国語?、【国家的】と【国際的】のあいだ 蓮實重彦・山内昌之『われわれはどんな時代を生きているか』(7)」の、注1をご覧ください。

(注2) ただし、山内は本書20頁で、「貧者の人種差別は、牙を抜かれた人種差別なのである」とも書いています。恵まれた人たちが持つ「寛容さ」は、その恵まれた地位や環境こそ背景にある場合があるのではないか、という疑問を持つことは大切です。そういえば、パレスチナの人々に比較的寛容といわれるのは、イスラエルの中でも恵まれたセファルディやアシュケナージではないでしょうか。


(追記) 気になる点を一点だけ。第1章において、マスウーディー(10世紀のアラブ人地理学者)が当時のヨーロッパ人たちを蔑視する一文が、引用されています。その中で彼は、ヨーロッパ人を「ユーモアに欠け」、「性質は粗野」、「振舞いはがさつ」、「理解力は鈍く」、「宗教的信条は堅固でない」と批判しているのです(15頁)。我々の時代のものなら、【俗信への妄信】などの言葉が、侮蔑語として並ぶのではないでしょうか。異教徒に対する侮蔑語が、「宗教的信条は堅固でない」だったことの意味を、今後考えたいと思います。