ベンヤミンと、批評家の【知的な賭け】 蓮實重彦・山内昌之 『われわれはどんな時代を生きているか』(2)

■1940年代のロサンジェルスにおける豪華さ■
 ヒッチコックフリッツ・ラングのような監督や、グレタ・ガルボマルレーネ・ディートリッヒなどの俳優は無論のこと、『春の祭典』のイーゴリ・ストラヴィンスキー、『三文オペラ』のカート・ワイル、『死刑執行人もまた死す』の作曲も行ったハンス・アイスラー、ルノアール監督の『ボヴァリー夫人』の音楽も担当したダリウス・ミヨーなどの、作曲家たちが40年代のロサンジェルスには「共存」していました。
 ハリウッド黄金期の映画音楽作家であるエリッヒ・ウオルフガング・コーンゴルドは、すでにガーシュイン以上にアメリカ的な生活を送ったいわれ、歌劇『モーゼとアロン』(ストローブとユイレ!)でも知られるアルノルト・シェーンベルクに至っては、テニスコートでラケットを振り回していました。
 ドイツ演劇の「皇帝」・マックス・ラインハルトはもちろんのこと。ベルトルト・ブレヒトは、『啓蒙の弁証法』のテオドール・アドルノやホルクハイマー、『エロス的文明』のヘルベルト・マルクーゼと交流し、オーソン・ウェルズと『ガリレオ・ガリレイの生涯』の映画化を検討し、ウイリアム・ディターレにジャズ史を教授し、フリッツ・ラングにはナチズムを啓蒙的娯楽映画としてとるための企画を提供し、この映画・『死刑執行人もまた死す』の脚本を書くこととなります。(注1)
 在米中に『奥様は魔女』を撮ったルネ・クレールはもちろんのこと。歴史は夜作られる』のシャルル・ボワイエの邸宅では、『現金に手を出すな』のジャン・ギャバンや『霧の波止場』のミシェル・モルガンらを巻き込んで、ヴィシー派とドゴール派の口論が行われていたといいます。
 『すばらしい新世界』で著名であろうオルダス・ハクスリーや小説『ベルリンよさらば』で知られるクリストファ・イシャウッドの姿が、MGMの撮影所で見かけられ、小説家のトマスとハインリッヒのマン兄弟が、弟の妻と大通りを散歩し、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリジャン・ルノワールが同じ車に乗っていました
 後に赤狩りの対象となる東海岸出身の作家たち、『血の収穫』のダシール・ハメットや「盟友」リリアン・ヘルマンなども、この「国内植民地としての西海岸の都市」にいたのです。このような顔ぶれがそ知らぬ顔で行きかっていた都市が、1940年代のロサンジェルスでした。

■知的な賭け、あるいはベンヤミン第二帝政
 先にあげたごとく豪華な面々がロサンジェルスには「共存」していたわけです(『啓蒙の弁証法』の「文化産業」の章が、サンタモニカでの口述筆記を原型としていることの驚き!(42頁))。差異を認めるという点で、人種主義に利用されかねない多文化主義に対して、この都市におけるハイブリッドな「共存」をもって、返答がなされています。固定された差異の住み分けではなく、反復にともなって差異化し続けるいかがわしくもある場所の肯定によって、固定された差異を解きほぐし続けていこうとする目論見、とひとまずといえるでしょう。
 もちろん、その一方で蓮實は、当時のアメリカ文化の中にある「日本像」が、十九世紀的な表象にとどまっており、日本人のほとんどはロスから離れていない土地で強制収用されているのに、これに気づいている「ヨーロッパの亡命者はほとんど誰もいない」(34−5頁)ことにも言及しています。
 日本人・日系人だけでなく中国人もムスリムも、誇張された存在として映画などで描かれ、ネイティブ・アメリカンも黒人たちも、現在と比較してステロタイプな存在としてしか、振舞うことを許されていませんでした。
 それでもなお、その限界を認めてなお、その場所が持つ可能性に、知的に賭けているのです。本著の一つのテーマは、この知的ともいうべき賭けといえます。
 蓮實は、批評家ベンヤミンが、フランス第二帝政の研究をしようとしたときには、「その研究対象である時代がまったく流行遅れのものだった」ことに言及しています。帝政など、今の共和国には無意味だ、と。「フロベールボードレールについては饒舌に語りながら、彼らが生きたナポレオン三世治下のパリについては語らずにおくという抽象的な姿勢がたやすく容認されていたのである。」というのです(37,38頁)。ベンヤミンはそのような不利な条件下において、知的な賭けを行ったのです。
 1940年代のロサンジェルスもまた、「六○年代の公民権闘争を通過しているのだから、四○年代の人種差別の問題はすでに清算されているはずだという公式の視点」にさらされていました。だとするなら、二十一世紀の批評家もまた、この不利な条件において、知的な賭けを行うはずです。
 蓮實は、「当事者にとっては、つかのまのできごととして記憶されても不思議ではないこうした事態を、まぎれもない二十世紀の現実として捉える感性こそ、二十一世紀の批評家には不可欠なものとなるはず」(40頁)と述べています。
  これとあわせていえば、知的な賭けには、自身の同時代人も、当事者たち(その時代において「共存」しえた者も、共存できないままに終わった者も含めて)も、ついに明確には感知しえなかった対象を、ある時代における現実として捉える感性が必要となるのです。なお、この問題は再度、最後の方で提起される事柄となります。
 1940年代のアメリカ西海岸でのアドルノたちの「茫然自失」を「いささかも共有しようとはしないハーバーマスの理論一般への確信が、二十世紀におけるアメリカの文化的な役割の無視によって成り立っている」(44、45頁)とする蓮實の批判は、この知的な賭けの重要性とともに、読まれるべきなのです。ちなみに、レヴィ=ストロースも、サイードも、ハーバーマスも、方法・理論ばかりを重視して、語るべき対象をきちんと分析し切れていないと蓮實は批判していますが、このような批判は、後に出版されるフィクション論たる『「赤」の誘惑』で繰り返されることになります(この本についてもいつか書きたいと思います)。

(続く)



(注1) アドルノとアイスラー、アドルノベンヤミンの関係については、細見和之アドルノ、ベンヤミン、アイスラー 〜30年代の「引き裂かれた半身」をめぐって〜」(『生きているうちにみられなかった夢を』様)をご参照ください。

(追記)蓮實は、浅田彰との対談において次のように述べています(「パリ・上海・幕張(2)」『幕張 アーバニスト 第1号』様)。

 近代の都市は、最も魅力的なものが最も困ったものであるという矛盾した側面を持っているわけです。そして近代とは、その矛盾をどのように処理するかに悩みつづけた時代だと思うんです。例えばベンヤミンが、第二帝政期のパリに対して非常にアンビヴァレントな感情を持つわけですね。パッサージュといった展示的な価値を持つ空間に強く惹かれると同時に、それは彼が考えている戦略からすると、そこに資本主義的な矛盾が集中するという意味で、撲滅すべきものでもあったわけでしょう。にもかかわらず、それに惹かれた彼は、その矛盾を解決することなく死んだ。我々は、ベンヤミンが解決できなかった矛盾を、遺産として引き継いでいる。

 近代の都市は、「いかがわしさ」ともいうべき両義性、つまりもっとも「魅力的なもの」がもっとも「困ったもの」であるという矛盾をどう処理するか悩み続けた時代であり、ベンヤミンもまたこの矛盾に悩みつづけた。そしてこの問題は現在でも残されている、というこの蓮實の問いは、この発言(1994年)から十年以上を経た現在でも、有効なのだと思います。これは、本記事での「首都」の問題を考える際に重要なことです。
 また、「その情報社会なり、あるいはネットワークというものが無意味というわけではなく、もっと魅力的になり得るはずでありながら未だ十分魅力的でない。」という蓮實の言葉は、つねに「情報社会」に生きるものにとって、心すべき言葉ではないでしょうか。