エリア・カザンの「転向」と、メディア的批判 蓮實重彦・山内昌之 『われわれはどんな時代を生きているか』(5)

エリア・カザンの「転向」と、余裕の問題■
 第五章で山内は、先の50年代のアメリカ映画という話の続きとしてエリア・カザンを取り上げ、ギリシア系移民という彼の立場の弱さ(「ネイティブ」の人間に比べて移民出身者であることの寄る辺なさ)が、やがて転向と「裏切り」に繋がっていく様を描いています。
 彼の自伝的映画『アメリカアメリカ』は、金が第一、夢のためにも金が先立つ世界で、アナトリアギリシア系青年が夢の国アメリカへ移住しようとして、自らの手を汚していく話です。山内は、これの原作における多民族性と競争原理が、アメリカと共通していると述べます。そして、本作から山内は、”おまえら裏切り者と俺をののしれる義理か?お前らも同じだろう?”という声を聞きます(93頁)。このようにして、エリア・カザンは、移住を郷愁化し、「転向」を正当化しようとしました。(注1)
 次に山内は、一度明治政府に反抗しながら、「転向」し駐米公使となった陸奥宗光と、政府に反抗して亡命した馬場辰猪とのアメリカでの出会いについて触れます。そして、陸奥エリア・カザンは、「転向」により「権力」と「理念」のあいだで引き裂かれていた点で共通していた、と言います(98−9頁)。「転向」した側にも言い分はある、というわけです。
 ここで問題としたいのは、話題から少し離れますが、「余裕」の問題です。坂野潤治 『未完の明治維新』は、「明治二十六年末」の議会で陸奥宗光が、議会政治も富国強兵も「すべて実現しましたと言い切っている」ことに対して、これまでの「幕末・維新期の思想家と政治家が必死にめざした」重い努力と比較をして、その発言の軽さを批判しています。陸奥の場合は、後世の人間の「余裕」を批判されたといえるでしょう。ここで問題としたいのは、「転向」した者が見せてしまう「余裕」の問題です。
 同じように、太田昌国「国策に奉仕する「〈知〉の技法」―山内昌之の発言に触れて」(『現代企画室』様)において、「東大教授という安全地帯にいる」己れは、〈周辺事態〉なる曖昧きわまりない、米国主導の戦争行為で生命を落とす、あるいは他者を殺害するかもしれぬという「危険地帯にいる」自衛隊員の未来像に心騒がぬのか。」とその「権力」的姿勢を指摘される山内は、立場の「余裕」を批判されたといえるでしょう(ただし太田は、山内の学術的業績は評価しています)。
 「一九六〇年代には、北大ブントのはしくれとして、「暴力」=ゲバ棒を振るっていた」(注2)という山内の「転向」が、この立場の「余裕」にどのように絡んでくるのかについては、ここでは考察しません。ここで重要なことは、「転向」をして、その人がその後見せてしまった無防備な「余裕」を見てゆくことです。

■納得の風土、エリア・カザンとメディア■
 第6章で蓮實は、エリア・カザンに対して、どのような「余裕」を批判するのでしょうか(もっとも、「批判」という仰々しいものではなく、しずかな、しかし力ある「指摘」なのですが)。彼はエリア・カザンの「自伝」にある一枚の写真、赤子の頃のカザンの母とその家族が写った写真を手がかりに、論述を進めます。
 まず蓮實は、マス・メディアにおける出来事性のなさに触れます。例えば、テレビである何かを見るのは、個人として偶然でも、全体的には、必然的に誰かが視聴し得てしまいます。誰かが、それを見るのです。しかも、膨大な匿名の人々によって見られてしまう可能性が、広がるのです。
 かようなマス・メディア環境にこそ、「二十世紀独特の体験がひそんでいるはず」(108頁)と蓮實はいいます(無論、現在ならマス・メディアのみならず、ネットのことも想起されるべきでしょう)。カザンの自伝の中で写真の被写体となった当時の人々には予想できなかったこのような事態、このメディア的流通構造の著しい発展こそ、「二十世紀独特の体験」なのです。
 我々が、エリア・カザンの幼いころの母の家族写真を見ることになるのは、まさに、20世紀以降の時代を生きているからであり、加えて、「エリア・カザン」という有名なメディア化された人物だからこそです。カザンという名前の有名性が、この写真を我々に見させるのです。カザンは、「まさにメディア化された名前としてあたりに流通する自分を、どこかで断ち切ろうとする決断をついに下しえなかった」(114頁) のです。この名前の流通という点も、「二十世紀独特の体験」といえるでしょう。カザンの持つメディア的な「余裕」が、ここで指摘されるのです。
 エリア・カザンの演出は、「物語の優位」の時代において、「納得」させる機能を持っていた(117頁)のですが、これは、1930年代以降のトーキー映画やテレビなどのメディアの求める「納得の風土」において、高い評価を受けることになります。
 彼の演出は、視覚的画面に対する物語の優位よって成り立っていて、このような「納得」させることばかりのカザンの映画に対して、蓮實がどう思っていたのかは、いうまでもありません。(注3「二十世紀独特の体験」であるメディア的流通構造の著しい発展において、納得と引き換えに、驚きへの感性が放棄されていく潮流に躊躇なく乗ってしまったこともまた、メディア的な「余裕」といえるでしょう。

(続く)



(注1)同じく、「裏切り者」となったジェームズ・ロビンズについては、津野海太郎『ジェロームロビンスが死んだ ミュージカルと赤狩り』をご参照ください。こちらに適切な書評があります(「ミュージカルと密告者」『千葉海浜日記』様)。「下院非米活動委員会に召喚された際、かつての同志の名を証言する「友好的証人」」だったというジェームズ・ロビンズとエリア・カザンを、いつか対比させて考えて見たいと思います。

注2)「山内昌之よ! いつからブッシュの提灯持ちになったのか」(『解放』様、第1691号( 2001年10月29日)より孫引き)。また、府川充男「六八年革命」を遶る断章」(『東亜文字処理 ライン・ラボのWebページ』様より孫引き)には、「伊斯蘭(イスラーム)圏史の東大教授山内昌之氏が北大社学同当時渡辺数馬の筆名で『理論戦線』に書いた社青同解放派批判等,『共産主義』九号に掲載された門松曉鐘[廣松渉]の「疎外革命論批判序説」一本の丸々引写しでしか無かった」との記述があります。

注3)この、視覚的画面に対する物語の優位という問題については、「イーストウッドと50年代映画 蓮實重彦『映画論講義』(4)」もご参照ください。


(追記) 『TARO'S CAFE』様の「グッドナイト&グッドラック ?」という記事のコメント欄では、「カザンが裏切りのシンボルとして定着してしまった理由」の一つとして、「カザンはすでに30年代から名声が確立し、証言を拒否しても経済的に本当に食い上げるわけではなかった。」ことを挙げられています。この点は、上島春彦レッドパージ・ハリウッド 赤狩り体制に挑んだブラックリスト映画人列伝』にも書かれています。