共存のための寛容と「自尊心」、スミルナのオナシスについて 蓮實重彦・山内昌之『われわれはどんな時代を生きているか』(6)

■スミルナのオナシス■
 第7章では、山内が、大富豪として名をはせたアリストテレス・オナシスと、彼の出身地スミルナにおけるある出来事を取り上げています。オナシスは、アナトリア半島のスミルナ出身で、ギリシア系のひとでした。当時のスミルナは、オスマン帝国支配下にありました。
 帝国の支配の下では、ムスリム以外の人々も、トルコ人以外の民族も、その支配における制限を受け入れる限りにおいて、共存を許されていました。(注1)そのアナトリア半島エーゲ海に面する都市スミルナ (トルコ語ではイズミル。スミルナはギリシア語) は、古くはイオニア同盟の主要都市の一つであり、19世紀に入るまでは多国籍な商業都市として栄えました。19世紀以降、イギリスをはじめとする欧米資本の投資によって、港湾や鉄道が整備され、物流の国際拠点となります。このころに、オナシスは、このスミルナで、中流階級ギリシャ一家に生まれます。スミルナは、ギリシア系住民の多い都市でした。

■20世紀初頭のコスモポリタン性とその崩壊■
 当時のスミルナは、ピーター・エヴァンス『オナシスの生涯』によると、オスマン帝国在住のギリシア人がトルコ語を日常語とし、ギリシア文字で書かれたトルコ語の書物を読み、時にアラビア文字で書かれたギリシア語を理解した(124頁)という、多言語的な社会でした。オナシス自身も、6ヶ国語以上話せた、といいます。まさしくコスモポリタン性に溢れた社会でした。
 もちろんこれは、「アリストは、帝国への忠誠を誓うために、星と新月をあしらった帽子や腕章を親の命令で不承不承つけさせられた」(125頁)という帝国で生きるための「制限」を条件としていました。ですが、このようにして、多言語の空間の中で、異なる言語話者が共存できていました。
 しかし、コスモポリタン性が均衡が保つ時代は終わります。第一次大戦オスマン帝国が降伏すると、ギリシア軍がスミルナ一帯を占拠したのです。スミルナでは、ギリシア人たちの拡張するナショナリズムで沸き起こり、ギリシア系住民は歓喜します。ナショナリズムが、帝国にあったコスモポリタン性を崩したのです。
 しかしそれもつかの間、三年後にトルコ軍が奪還します。真っ先に逃げたのは、ギリシア軍と総督や文官たちでした。逃げ遅れたギリシャ軍兵士の多くは射殺されました。住民は見捨てられました。帝国臣民でありながら「裏切り」を行ったスミルナの主教クリソストモスは、トルコ人の暴漢たちに、生きながらにして手足を切断されるなどして、残酷なやり方で虐殺されます(130頁)。ギリシアが「征服」してきたときに行ったトルコ系住民の虐殺が、その背景にありました。(注2)
 オナシス家は全ての財産を失い、ギリシャへ難民として移住します。ギリシア側を助けた廉でアリストの父は、トルコの収容所送りになります。そこでアリストは、軍当局に渡りをつけ、父を釈放させます。アリストは、「賄賂」「酒」、さらには軍の中尉と「愛人関係」をさえ結んだといわれます。
 しかし、収容所生活での栄養不足と病で人の変わってしまった父は、彼の「浪費」(!)を非難します。「人がすぐに感謝の念を忘れてしまう動物だということを学んだ」アリストは、父と離別しアルゼンチンで商売を始めることとなります(134−6頁)(注3)帝国のコスモポリタン文化の終焉とおなじ時期のことです。

■共存と寛容、そして小さな自尊心■
 印象的なのは、オナシス一家が、主教クリソストモス虐殺の一報を聞いたとき、アリストの祖母・ゲスセマネが、主教のみならず彼を殺したものたちのためにも祈るよう言ったことです。アリストは納得できませんでした。しかし祖母曰く、「私たちはいつも弱い者を許してやらなければならない」。ムスリムギリシア正教徒を区別しないこの態度が、「多民族帝国の少数派として生きていく上で大事な知恵だった」のです(133頁)。
 宗教がもたらす寛容の精神と、その寛容がもたらす宗教への自尊心との均衡の中で、この帝国は支えられていました。それは、ギリシア正教の人々にも、ムスリムたちにも、おおよそ同じことが言えるのかもしれません。寛容をなすというわずかな自尊心が、この帝国における共存を支えたともいえるのではないでしょうか。もちろん、その寛容さが少数派にとってより難しいものであったことはいうまでもありません。少数派として生きる上で、この寛容の精神と、それがもたらすわずかな自尊心に、コスモポリタン性は支えられていたのかもしれません。

(続く)



(注1)当時のオスマン帝国の異民族・異教徒への政策については、名著・鈴木董『オスマン帝国  イスラム世界の「柔らかい専制」』 をご参照ください。

(注2)イズミール」(『世界飛び地領土研究会』様)によると、この後、

ギリシャとトルコは住民交換条約を結び、紛争を抜本的に解決するために、ギリシャに住むトルコ人とトルコに住むギリシャ人を、それぞれ相手国へ強制移住させることになった。これによってトルコを追われたギリシャ人は150万人、ギリシャを追われたトルコ人は100万人と言われる。

 なおこの頁には、「ギリシャ人」と「トルコ人」の判断基準が宗教であったことも書かれています。「イズミール地方のギリシャ正教徒はギリシャ語を話していたが、黒海南岸の住民が話すギリシャ語はギリシャ本土では全く通じず、カッパドキアの住民はもっぱらトルコ語を話していた」のですが、彼らも追放されます。
 世俗主義であったはずのケマル・パシャでさえも、?トルコ語を話すギリシア正教徒と?ギリシア語を話すムスリムの、どちらが「トルコ国民」かという問題に対して、後者だという判断を下しています。言語よりも宗教の方が、国民統合に利用しやすい、という判断があったのです。詳細は、山内昌之イスラームと国際政治 歴史から読む』をご参照ください。
 ただし、トルコ人ギリシア人以外の民族にも注意を払うべきで、「トルコはスミルナを占領すると,およそ三万人のギリシャ人とアルメニア人のキリスト教徒を虐殺した。都市は巨大な炎に包まれ,残されたのはトルコ人ユダヤ人の居住区だけだった」と、リチャード・クロッグ『ギリシャの歴史』に書かれています(「現代ギリシャの歴史」『ΑΤΑΚΤΑ』様より孫引き)。アルメニアとトルコという問題が、このスミルナにも映し出されています。

(注3)発掘!テレビ映画って結構面白いじゃん!?」(『angeleyes』様)によると、『海運王オナシス/世界で最も富を得た男』というテレビ映画では、父と息子は終生親密な中として描かれている模様です。山内も、このテレビ映画も、同じピーター・エヴァンズの著作を参照・原作としていますが、父子の仲は、まるで違う印象です。原作は読んでおりませんが、テレビ映画のほうがこれを改変したのだ、と推測します。

2010/1/22 内容一部改変