ヴァレリー・ラルボーにおける第三共和政のパリ 蓮實重彦・山内昌之『われわれはどんな時代を生きているか』(8)

■コスモポリタニズムの不可能性と可能性■
 蓮實が行ったのは、究極のコスモポリタンの登場する小説を示すことでした。ヴァレリーラルボー『バルナブースの日記』の主人公は、ありえないような【セレブ】です。大変裕福な南米の家の出の彼は、親の遺産を相続すると、堪能な語学を生かして、欧州を漫遊し各地で贅沢の限りを尽くしていきます。ひたすらそれだけを、詩を捻りつつ行っていくのです。
 コスモポリタンが消滅してゆく時代に応答するかのように、ヴァレリーラルボーは、絶対不可能な虚構上の「コスモポリタン」を登場させたのです。これまで存在したことのないほど絶対的コスモポリタンは、その存在不能性(つまり、ありえなさ)ゆえに、コスモポリタニズムの限界を明らかにするのです。
 おそらく蓮實は、コスモポリタン性というものを、理念的なものと捉らえていたのだと思われます。というのも、究極的には、完全に自由なコスモポリタンは、この世界に存在しないからです。スミルナの人々は、ある種の「諦念」を持ちながら、帝国の統治構造に入ることで、民族や宗教の対立を超えて共存して、その繁栄を享受していました。
 いうまでもなく、条件付の自由において、コスモポリタンたりえていたのです(例えば帝国への忠誠の証としての、星と新月をあしらった帽子や腕章を身に着けねばならない制約を、後世子孫である【アメリカ人】・エリア・カザンは、これを 【押し付けられたもの】 と見ていたのです)。
 もし、本当に自由なコスモポリタンになろうとすると、小説の中にあるような、金銭的富裕と上流的人脈と語学的才能、そして、それらを蕩尽するだけの有閑が必要になります。そのような究極的な自由を持てる(つまり、あらゆる原理から制約されないという意味での)真のコスモポリタンは、小説の中にしかいないのです。
 『バルナブースの日記』は、コスモポリタニズム終焉の時代において、このコスモポリタン性というものの不可能性、つまり【ありえなさ】を示すことで、コスモポリタニズムの現実における不可能性と、理念としての可能性を示したのだと思われます。
 現在、仮に「国家的」からも「国際的」からも距離をとり、原理主義的な場所から離れた真にコスモポリタンたろうとするのなら、この可能性と不可能性の狭間において、理念としての可能性を目指して動く必要があるのです。この「理念」という問題は、第10章における、虚構への知的な賭け、という問題に繋がっていくことになります。

ヴァレリーラルボーにおける第三共和政のパリ■
 蓮實にとっての(理念的な)コスモポリタニズム(言語的、民族的、宗教的な混在的共存)というのは、20世紀の首都たる1940年代ロサンジェルスのような、いかがわしさをともなう輝かしき共存に近しいものではないでしょうか。このいかがわしさをともなう共存という点で、蓮實はアナトリア半島のスミルナに魅せられたのだと思います。その点で、蓮實の言及するヴァレリーラルボーは、20世紀初頭のスミルナや1940年代のロサンジェルスからは、遠い存在に見えます。
 しかし、このラルボー『バルナブースの日記』を、【理念としてのコスモポリタニズム】のために使うだけというのも、もったいない話です。フィクションたる『バルナブース』の禁欲的な例示よりも、作者ヴァレリーラルボー本人とその周辺の人物たちのエピソードを混ぜる方が、20世紀の首都の話とのつながりを示す点で有効なはずです。
 一代で一家の財を蕩尽したというヴァレリーラルボーは、優れた語学力と言語感覚を持ち、「幼年時代からヨーロッパを旅行して過ごすような生活が可能であったため、ギリシャ、ラテンの古典の素養に加えて、英語、イタリア語、スペイン語ポルトガル語、ドイツ語が堪能で、まだほかにもルーマニア語カタロニア語も自由にあやつったという。」人物です(「リル(3)」『オックスフォード便り』様)。小説にも、その優れた言語感覚が反映しています。
 彼は、秀でた翻訳者でもあり、外国語文学の最良の紹介者でもありました。ジョイス『ユリシーズ』の仏語訳は、ラルボーの協力でなされたものです。また、サミュエル・バトラーからウィリアム・フォークナーまで、フランスに移入させたのも、ラルボーです(以上については、未読ですが、西村靖敬『1920年代パリの文学』が、絶好の参考文献になりそうです)。

■アドリエンヌ・モニエ。そして、理念としてのコスモポリタニズム■
 またラルボーは、パリのオデオン通りで書店を経営する、アドリエンヌ・モニエのグループに加わっていました。このグループには、ポール・クローデル、レオン=ポール・ファルグ、ポール・ヴァレリージャン・ポーランエリック・サティダリウス・ミヨーアンドレ・ジッド、エズラ・パウンド、ジェームズ・ジョイス、アーネスト・ヘミングウェイライナー・マリア・リルケF・スコット・フィッツジェラルドウィリアム・バトラー・イェイツ、サミュエル・ベケットルイ・アラゴンアンドレ・ブルトン、さらにはW・ベンヤミンまでもが、程度や時期は異なれども参加していたのです。
 この書店で、「ラルボーはそこで皆にサミュエル・バトラーを発見させるし、ジョイスはそこでその回想録を読むし、音楽家たちはそこで自作を演奏するし、ポーラン、次にブルトンは、そこで聞いたこともないチューリッヒで発行された雑誌『ダダ』に出くわす」のです(松田浩則訳、ドニ・ベルトレ『ポール・ヴァレリー / 1871-1945』(『グラッパ/古い瓶の空間』様より孫引き)。
 なぜ、このような素晴らしき側面を、蓮實は描かなかったのでしょうか。アラゴンブルトンベンヤミンという、パサージュから連想できる人間が少なくとも3人もいるのに。第二帝政時代のパリと1940年代ロサンジェルスのあいだの、この第三共和政時代のいかがわしく輝かしい共存を少しでも書いておかなかったのか。
 蓋し、映画人をはじめとする異業種と文人たちのとの驚嘆すべき共存・組合せ、という側面があまりなかったことが大きいのだと思います。このグループが、その綺羅星のごとき才能にもかかわらず、1940年代ロサンジェルスよりいかがわしくないのはそのためでしょう。ヴァレリーラルボー第三共和政のパリは、いかがわしさが足りないゆえに、あえて書かれなかったのだと思われます。まあ、実際は、紙の枚数が足りなかったか、忘れてたか、どっちがでしょう。

(続く)