1864年の「虚構」への知的賭け/1936年の「変化」を忘れた「改革」 蓮實重彦・山内昌之『われわれはどんな時代を生きているか』(10)

■「虚構の物語」への知的な賭け、1864年をめぐって■
 自分はどんな時代を生きているのか。あけすけにいうなら、同時代でもある「近代」とは何か。これが第10章で、蓮實が問うとする事柄です。
 自分は、同じフランスの19世紀でも、「バルザックスタンダールの小説を読んでも、その理解はごく抽象的」だが、1848年以降はなぜか理解できる、と蓮實はいいます(176、177頁)。なぜか。それは、1848年以降の時代というものが、紛れもなく同時代だからだ、と説明されます。その同時代とは、蓮實の『物語批判序説』でも述べられていた、1848年以降現在まで続くであろう、「凡庸な」言動の反復が支配する時代のことです。
 紋切り型を【しゃべらされてしまう】この「凡庸な」同時代において、蓮實は問います。「いま」という時代を真摯に生きる人間だけが構想できる「虚構の物語」ともいうべきものへ、理念的に賭けることが、後世の人の思考と「いま」の人の思考とを通呈させるのではないか、と。
 蓮實は一例として、スルタンガリエフを挙げます。彼の「虚構の物語」への知的な賭けは、後世と通じ合っていたのではないか、と。ここで言われる「虚構への物語」とは、共産主義イスラーム主義、民族主義の三つのあいだの、共存と葛藤を土台とした脱植民地主義的な革命思想を指すはずです。この三つの主義いずれもが各々もつ排他性を克服し、彼は後年の第三世界における有志たちに思想的地盤を与えました。
 いうまでもなく、ここでいう「虚構の物語」とは、単なる画餅でも虚構でもなく、真実が何かが不確定な中で、あえてそれに賭けてみることで、それが後世の者にさえ通呈してしまう、大胆さをもつ【フィクション】にほかなりません。
 また、通常ノイズとして切り捨てられがちな細部の意義を復権し、「分析を突き詰め対象をさらに細分化していくことで、全体に触れることができるのではないか」(194頁)として、最大と最小の通低という「仮説」についても、蓮實は述べています。そして、ベンヤミンにおけるパサージュこそ、全体に触れるその細部だ、としています。無論このパサージュも、知的に賭けられた「虚構の物語」に他なりません。

 批評とは、「いま」だけが構想せしめる虚構の物語への賭けを代償として、初めて実践される生の体験にほかならない。 (181頁)

 蓮實はそれに加え、伊達千広の原典(『大勢三転考』)を読みたいと思いながら、まだ読んでいないことを告白し、それでもこれについて言及しようとしようとします。伊達は「三転」というある種の「構造論的な虚構を成立せしめ、その物語に賭けようとする著者の知性がそこに感じとれる」(185頁)、と蓮實は評価します。歴史学的というより、フーコー『言葉と物』的な構造論的である点で、『体勢三転考』の「物語への賭け」を評価しているのです。そして、この書物は、江戸期でも幕末期の書物ではなく、19世紀の書物だといいます。この書が書かれたのは1864年、【19世紀の首都】を論じたベンヤミン『パサージュ論』が起点としているのも、1864年なのです。

■「改革」と「変革」■
 山内と蓮實は、本書の最後で対談を行っています。その中でも、いくつも興味深い話があります。
 例えば、インカやマヤ、アステカ文明などの「古い文明からの連続として、アメリカをとらえる歴史学というのは実はアメリカ人やソ連人の意識の外にあった」(203頁)という山内の指摘や、「アメリカから実は亡命者が出たという見方は、アメリカ人はもとより、プロのアメリカ史家もあまりしない」(209頁)という話は大変興味深いです(この亡命者が例えばジョセフ・ロージーです)。ソ連へ亡命した土方与志の話も興味をそそります。
 NYタイムズの記者に、北野武に比較できるのはジェリー・ルイスしかいないと蓮實が述べると、その記者は映画を撮っていたことを知らなかった(212頁)というエピソードは、ある意味後の「モンゴメリー・クリフ(ト)問題」に通じてしまうでしょう(注1)
 本書の最後に、山内との対談のなかで蓮實は、生まれた年である1936年を研究したいと述べています。この年は、二二六事件と、総選挙での社会大衆党の大勝利年です。社会大衆党の勝利によって、改革、改革と言葉が唱えられながら、それとは別の方向へ進路が行ってしまったからだ、というのがその理由のようです(213、214頁)。これについては、蓮實が東大総長時代に、「改革」という言葉を避け、「変化」という言葉を使おうとした点を想起すべきでしょう。
 2001年の蓮實の『私が大学について知っている二、三の事柄』を参照すれば分るように、「政治的な変化を恐れる人だけが『改革』をとなえるという現状」を批判する蓮實は、「変化」を、「ほんのわずかな入力が思いもかけぬ重大な結果をもたらす」ことの「驚きの体験」だとしています。
 ここでは、蓮實の、1936年の出来事に対する理解の正確さについては、保留します。まず重要なことは、「改革」を唱え続けたあの某国の宰相が、ついに真の意味での【政治的な変化】だけはもたらすことがなかった事実です。これについては多言いらないでしょう。問題は、「ほんのわずかな入力が思いもかけぬ重大な結果をもたらす」ことの「驚きの体験」ではないか、という言葉をどう受け止めるかに他なりません。果たして、今唱えられている諸「改革」に、「変化」と呼ばれるものは、ありますでしょうか。

(了)


(注1) この問題の詳細については、既稿「複数としての擁護 蓮實重彦『映画論講義』(1)」をご参照ください。