「神」 -たかがレトリック、されどレトリック- 中村圭志『一Q禅師のへそまがり“宗教”論』(1)

・中村圭志『一Q禅師のへそまがり“宗教”論』サンガ (2009/1)

■宗教/世俗の境界線と、その曖昧さ■
 イスラームキリスト教が対立している、ということがよく言われます。「文明の衝突」等がそれにあたるでしょう。しかしそうではなく、「ある種の宗教システムと(宗教を表社会から排除した)「世俗主義」とが対立」しているのではないか、と本書は提起しています(154頁)。表社会にも宗教が残るタイプが前者であり、表社会に宗教を排したのが後者、というわけです。
 そうなると、表社会ではない「深層」という点では、共通性があることになりますが、「深層」とは何でしょうか。本書では、それを5つの観点から見ていくことになります。その五つとは、以下のものです。

 ?霊魂よりも「からだ」 ?神仏より「ことば」 ?信仰より「しつけ」 ?救済より「くらし」 ?宗教より「れきし」

 つまり、我々が宗教に抱く抽象性や非合理性、思想性という「表社会」からではなく、むしろ具体性や社会性という「深層」から見ていこうとする試みなのです。本書から見えてくるものは、従来考えられている「宗教」の「世俗」に対する異質性ではなく、その構造的・社会的な共通性と、それを基盤とした上での志向の違いです。

■【死すべき存在】から宗教は始まる■
 まず本書では、「霊魂」等の抽象的概念からではなくて、「からだ」という具体的なものから読み解くことを教えます。この私たちにとって身近な「からだ」を無視して、抽象的な存在である「霊魂」云々の話など意味がない、というのです。「目に見えないものの話をするのが宗教だ」というのは「勝手な憶測」に過ぎません(15頁)。
 重要なのは、霊魂を信じるか、信じないか云々のはなしではありません。例えば、自分や自分の愛する人の、「からだがまさに失われようとしている、そんな時と場において、つまり、臨死の場において」、「霊魂」にまつわる話を受け入れることは、「他人がとやかく言えない真剣味がある」(40頁)。
 自分や自分の愛する人々というリアリティある存在が、いつか死んでしまう(あるいはいつか死んでしまう)【死すべき存在】であるがゆえに、この「霊魂」という語は真剣味をもつ。このときの真剣味は、宗教/非宗教、信仰/非信仰を問いません。「宗教」の開始地点は、信仰/非信仰に関りなく、人間存在全員に関るものなのです。
 しかし、非信仰者には、「霊魂」という語は幾分奇異に聞こえます。次に説明されるのは、「霊魂」も「神仏」も、こういった言葉がまず、「ことば」であるという点です。

■【神】というのは、まず【ことば】である■
 さらに本書は、「神仏」という超越的な存在から論じるのではなく、これらの存在がまず、「ことば」という人間誰もが使うものから論じます。
 そもそも、人間の認識は本質的にレトリック的構造を持っています。「心の養う」とか「幸せを築く」というのもレトリックの一種です。これらは、レトリック、つまり、自他とより円滑に疎通するための手段です。(注1)
 ならば、「神」や「霊」といった宗教的なことばも、「心の養う」とか「幸せを築く」といった「実体がはっきりしないのに意味の通じることば」と同じくレトリックである点で、「相通ずるところがある」のではないでしょうか。少なくとも、社会において機能的には、等価になるのではないでしょうか。
 もし、「神」という言葉がその社会で通じるなら、「心の養う」と同じ程度に現実的な概念のはずです。「神仏」という言葉の持つ「権威」を考えたとしても、その「行為遂行的」な効果を考えれば、社会的な現実性、そして社会的機能は共通します。「神仏」というのは言葉であり、その言葉が社会的にどの程度現実性・機能性を持つか、ということなのです。(注2)
 しかし、レトリック的には等価でも、非信仰者にとって「信仰」というのは奇異に見えるかもしれません。自分たちとは違うものと考えがちです。これに対して本書では、「信仰」という概念ではなく、「しつけ」という世俗/宗教を問わない観点から見ていきます。

(続く)


(注1)

「問題を解く」とか「時間が足りない」などはすべて黙示的隠喩(implicit metaphor)に他ならない。注意深く分析すると、〈問題〉があたかも固く結ばれた糸や氷のように見立てられていることがわかる。また〈時間〉が消費される資源のようなものとして理解されていることも判明する。

このように述べる菅野盾樹メタファー」(『シンボルの海』様)に、本書に見られるメタファー観があらわれています。しかしより重要なのは、菅野氏が、「隠喩は人間の認知の本質的構成分なのであって、これを字義的なもので代替することはできない」として、隠喩が、認知の基礎をなしていると述べていることです。

(注2)  前近代の伝統社会では、神にまつわる「ことばを交えた神話や教えや哲学やオキテを活用しながら社会を営む」が、そういった「ことばをなるべく排除」したのが近代ではないか、と本書は述べています(59頁)。そして、前近代から近代へのこのような変化は、社会の流動性の増加が原因と考えているようです。首肯すべき意見です。