「神は妄想である」かどうか考え直す。 中村圭志『一Q禅師のへそまがり“宗教”論』(3)

 今回以降、基本的に、【重要な箇所の引用(抜書き) + これに対するコメント】という形式をとります。
 本書については、途中まで、書いていたもの(既稿(1)、(2))があります。今回は、その途中の部分のと重複もありますが、すべてを上記の形式で書いていこうと思います。既稿(1)と(2)は残して、書いていきます。
 なお、本書は、「一Q禅師」という架空の人物へのインタビュー形式をとっています。「じゃ」といういかにもわざとらしい語尾は、この人物のものです。
 
:引用内での、<>の記号は、本文中の傍点部をさします。

■「死ぬのは怖くない」と軽々しく言うな■

 やはりここで指標となるのは、わしら一人ひとりの「自分」の<からだ>じゃ。病気になると苦しい、切ると痛い、死ぬのが怖い<からだ>じゃ。<からだ>は動物である。生物である。死ぬのが怖くないというのは、悟った坊主であっても気軽に口にしてはいけないことじゃ。このことを忘れた輪廻だの幽霊だの、救済だのサトリだの神の国だのの話など、クソほどの値打ちもない。 (40頁)

 既に(1)で書いたことの繰り返しになりますが、身体という具体的な存在を抜きに、精神的、形而上学的なものを語るのは、片手落ちです。自分や自分の愛する人々というリアリティある存在が、いつか死んでしまう【死をおもう存在】であるがゆえに、「霊魂」という語は真剣味をもつのです。死(への怖れ)を、自身の哲学の枢要に置いたハイデッガーを、想起してもいいでしょう。
 ともあれ、本書のテーマは、【「具体性」から宗教を知る】、といえます。

■「権威」の理由■

 世の中を構成している物事には複数のファクターがある。無数のファクターのすべてをチェックして、合理的に納得しながら暮らすのは無理である。そこで、このチェックをすっとばす<よすが>となるものが必要となる。それがケンイじゃ。 (54頁)

 ルーマン社会学のことは難解でわかりませんが、「複雑性の縮減」というタームに関るのでしょう。権威のおかげで、手間を省いて事を行える、というわけです。【権威へ服従】という図式的理解を理由に、宗教を生理的に嫌悪する人もあるでしょうが、世俗世界との違いはあくまで、程度の問題に過ぎません。少なくとも、世俗の人は程度は違えど、みな、「権威」に服従しています。

■「訓練」を忘れて、「神は妄想である」などと軽々しく言うな■

 「神」や「仏」は、ただの観念にとどまるものではない。その裏には、一個のライフスタイルが張りついておる。伝統の暮らし方じゃ。「神」という観念を交えた伝統の暮らし方をトレーニングして身につけること。初めてその「神」が生きてくる。 (92頁)

 (2)でも詳しく書きましたが、信仰というのは、日々の生活の中で形作られていきます。ムスリムの場合、メッカへの礼拝をし、戒律を身に着け、振る舞いを正し、コーランのことばで会話したり人生を論じることができるようになって、初めて、アッラーが暮らしの中で働いてくるものとなります(93頁)。
 たいがいの宗教では、さまざまな具体的な戒律やタブーを一つひとつからだに覚えこませていく習慣的訓練という要素が重要(130頁)なのです。この点を考慮に入れないで、「神は妄想である」などと結論めいたものを出したりするのも、頭の体操でないとしたら暇つぶしでしかありません(93頁)。
 別にこれは、ドーキンスの議論を批判しているのではありません。宗教を論ずるに当たって、身体的プロセスや、諸々の共同体的・集団的な儀礼などを無視することはできない、ということです。良くも悪くも、その点を見逃せない、ということです。

■宗教とは「ライフスタイル」である。■

 宗教を「神様の教えを信じ込む」<信仰>というふうに見るとどこか洗脳っぽい感じがしてくるのですが、ある集団的なゲームのスタイル、ライフスタイルの問題というふうに見てみると、「そうか、そんな暮らし方もアリかな?」と思えてきます。 (102頁)

 重要なことは、非・宗教的社会と宗教的社会とを、隔絶した関係と考えないことです。「信仰」という絶対的な壁を想定して考えると、宗教というものが分らなくなるかもしれませんが、社会の中での生活の仕方の違いとして、これを相対的な隔たりと考えれば、多少理解しやすいかもしれません。
 自分に信仰心はない、ゆえに自分と彼らは違う、ではなくて、もし自分がこういう生活スタイル、そしてそうした社会の中で生きていたら、このような信仰する【スタイル】を身につけていたかもしれない、と考えることが重要なのです。

■説教は、まず自分に言い聞かせられる。■

 他人に説教する奴は、たいがい自分に言い聞かせているもんじゃ、宗教に入りたての信者も、えてしてこうなる。 (106頁)

 右左関係なく、過激な活動を志向する団体は、こういう傾向があるかもしれません。特に、入りたての人の場合は、そうでしょう。その舌鋒が「熱狂的なのは、ある信念体系を身につけるための学習プロセスの一段階というふうに理解できる」わけです。ことによったら、教師の説教や親の説教もまた、「道徳」をみにつけるための学習プロセスかもしれません。