ドイツ人の中のマイノリティ ・ヴォルガドイツ人 平野洋『伝説となった国・東ドイツ』(3)

■「俺たちの女」を盗られたネオナチ■

 以前聞き取りをした東のネオナチの青年たちは、反外国人の理由として「仕事を奪う」の他に「俺たちの女を盗る」ことをあげた。 (176頁)

 この根拠のない「所有」意識こそ、ナショナリズムの中にあるジェンダーバイアスを考える鍵になると思います。言いたい放題のネオナチですが、こういう思考は、他国の男性全般が、もち得るものかも知れません。
 なお著者は、『黒い性・白い性』と、『フェミニズムの宇宙』を注として挙げています。

■ユーゴ難民に対する、西ドイツの老婦人による不当な批判■

 「彼らはドイツの豊かさに目が眩んで、戦争が終わってもこの国に残りたがるのね。」 (208頁)

 これは、ドイツに流入するユーゴ難民についての西ドイツの老婦人の発言です。
 自分は故郷のベルリンが瓦礫の山になっても疎開先から帰ってきたのに、と彼女は述べます。著者は次のように反論します。彼女のときは、ヨーロッパ全土が荒廃していた。今現在のような状況とは違う。しかも、大半のユーゴ人は、故郷へ自らの意思で帰国した。
 これについては、著者の方が正しいと思います。またそもそも、ユーゴ内戦の一因は、ドイツが煽ってしまった側面がありますから、彼女の傍観的発言は不当なものといえるでしょう(詳細は、拙稿「豊下楢彦『集団的自衛権とは何か』(2)」をご参照ください)。

■ボルガドイツ人、あるいはドイツ人の中のマイノリティ■

 東ドイツ人はあまりしない仕事で、ロシア系ドイツ人との間に競合関係などない。彼らがロシアで得た資格はドイツでは認められず、医師免許や教員資格は通用しない。(略)無職でいれば社会に寄生しているといわれ、職を持てば、奪ったといわれる。 (222頁)

 ドイツ国内では、ロシア系ドイツ人(ボルガドイツ人)に対する、【ネイティブ】のドイツ人による差別が存在します。これは、著者の差別に対する批判的記述です。
 ボルガドイツ人が担う仕事は、実際は3K労働であり、【ネイティブ】とは競合関係にはなりません。なのに、無職でいれば社会に寄生しているといわれ、職を持てば奪ったといわれるのです。移民出身者というのは、こういった理不尽をマジョリティから受けます。(注1)では、ボルガドイツ人とは誰なのでしょうか。
 十八世紀、経済・宗教的理由から、ドイツ人の集団が、ロシアのボルガ地方に移住します。エカチェリーナ2世の時代、積極的に彼らはロシアに招致されました(彼女はドイツ出身)。ボルガ地方に多く住んだため、ボルガドイツ人と総称されます。彼らは、農業労働者としての役割の他、東方のタタール人との緩衝地帯を形成する役割も期待されたといいます。(注2)
 しかし、スターリン時代になるとナチドイツとの関係を国から疑われ、ボルガドイツ人たちは、シベリアなどソ連各地に分散・追放させられますスターリン死後も、かれらの自治を含む権利が復活することは、ありませんでした。(注3)
 ボルガドイツ人たちの受け入れを、戦後西ドイツ政府は、はかってきました。そこには、東側への対抗心もありました。西ドイツは、数百年前にロシアに渡り、満足にドイツ語ができなくとも、ドイツ人の血をひく彼らを受け入れようとしました。いままでにおよそ二〇〇万人のロシア系ドイツ人が「帰国」しました(その後、増え続ける移民に対し、西ドイツ政府は受け入れに消極的な政策をとるようになります)。
 しかし、同じ「ドイツ人」でありながら、その出自からマイノリティとなるボルガドイツ人への【ネイティブ】の差別が存在しており、上記のような事態となったわけです。「冷戦終結後、ドイツに移住したロシア系ドイツ人は230万人に上り、その多くが満足にドイツ語を話せないことなどから就職もできず、貧困層を形成している」といわれています。
 ボルガドイツ人については、おなじ著者による『東方のドイツ人たち』という本も必見です。

■東欧の反ユダヤ主義

 第一次大戦後、ポーランドチェコなど東欧各国は独立を認められると、これらの国々で強烈な民族主義が湧きあがり、それは反ユダヤ主義につながった。その結果、迫害を逃れておおくのユダヤ人たちがドイツにながれこんだ。ロシアからは革命の影響でユダヤ人たちがドイツに移住してきた。 (16頁)

 革命で逃れてきたユダヤ人の多くはおそらく、比較的富裕な階級が中心だったのだろうと思います。ただ、東欧各国の反ユダヤ主義については、詳しく知りません。ヤン・T・グロスアウシュヴィッツ後の反ユダヤ主義』という本は、第二次大戦期のポーランド人による「ポグロムを描いていますが、第一次大戦後の反ユダヤ主義は、この事件につながっていくのだろうと思います。
 事実、「Wikipedia:ポーランドにおけるホロコースト」には、「戦前(引用者注:第二次大戦前)には社会的に広く反ユダヤ主義が存在し、時に反ユダヤ主義カトリック教会やいくつかの政党によって助長されたが、政府が直接反ユダヤ主義を唱えることはなかった。ポーランドには反ユダヤ主義に反対する政治勢力も複数存在した。」とあります。


(注1)
 また、「彼らがロシアで得た資格はドイツでは認められず、医師免許や教員資格は通用」しなかった点も重要です。冷戦後ロシア内のユダヤ人がイスラエルへ移入したとき、ロシアで取った医師免許や教員資格をイスラエル内で使うことは、認められませんでした。そのため生活水準は下がり、この不満が、国内の政権交代の一因となります。

(注2) 「ヴォルガ・ドイツ人は、ロシア文明と西欧文明をつなぐ架け橋だった。先進的な農業の技術や方法、さらには文化・伝統をヴォルガ地方の諸民族に伝え、普及させることにも貢献した。サラトフがヴォルガ地方の工業・商業の一大中心地になったのは、多くの点でドイツ人入植者のおかげである。」という一文が、彩流社の『ヴォルガ・ドイツ人 知られざるロシアの歴史』の紹介頁にあります。
 なお、ロシア内のタタール人たちについては、山内昌之スルタンガリエフの夢』に言及する際触れます。

(注3) ただし、「Wikipedia:ヴォルガ・ドイツ人自治ソヴィエト社会主義共和国」は、スターリン登場以前にも、ボルガドイツ人たちへの弾圧があったことを書いています。曰く、
 「ロシア革命の後も敬虔なヴォルガ・ドイツ人の約76パーセントがキリスト教ルター派を信仰していたが、無神論を掲げるボリシェヴィキ政権と間もなく摩擦を生じることになった。1919年に、反革命プロパガンダを唱えているとして、多くの牧師がシベリア強制収容所(グラグ)に送致されている。