古井由吉におけるフィクションの論理  古井由吉『漱石の漢詩を読む』

古井由吉漱石漢詩を読む』岩波書店 (2008/12)

漢詩の多義性■

 幽という字は暗い、かすか、それから奥深いという意味があるので、そのいずれか一つだけを取りたくないために、吉川氏はユウと読ませたのだと思います。 (27頁)

 「幽」についての著者の発言。吉川氏とは、いわずと知れた中国文学者・吉川幸次郎のことです。
 「幽玄」の「幽」は、「かすか」であることを意味し、「幽谷」の「幽」は、「奥深い」を意味します。
 詩そのものの本質なのでしょうか、漢詩では、このような多義性が頻繁に現れます。複数の意味同士の揺らぎの中で、詩は謡われ揺るぎ続けています。吉川幸次郎は、それを踏まえていたわけです。

 普通の意味に取れば、「青い山」とは遠い山、人の憧れを惹く遠山になる。(略)もう一つ取り方がある。「青山」とは墳墓の地を言う。 (123頁)

 これは、「青山」についての説明です。片や、人の憧れを惹く遠山、片や、終の安息をあらわす墳墓の地。二つの意味の間で、詩は、揺るぎ続けています。(注1)
 また多義的とは、単に複数意味があるというだけではありません。例は出しませんが、時には、正反対の意味同士の、あるいは意外な意味同士の組み合わせであることも、もちろんあるわけです。
 詩の多義性と聞くと、個人的には、意味を過剰に産出してしまうマラルメの詩が思い出されます。例えば、「yx のソネ」は、「ptyx」という語から次々に意味があふれ出していく驚嘆すべき詩です。そんな連想を、渡辺守章「襞にそって襞を フーコーの肖像のために」(『哲学の舞台』)を読んで思う次第です。マラルメについては、古井氏による『詩への小路』がありますが、これは別の機会に。

漢詩の脱モノローグ作用■

 晩年の詩は、自分の中にいろいろな他者を含んでいる。だから、さまざまな主人公が、詩によって立てられている。中には、今にも立ち上がって戦に駆けつけようというような詩もある。隠遁の生活を喜ぶ詩もあれば、悲憤慷慨の詩もある。馬鹿正直に読んでいると、これはいったい誰のことを詠っているのかと思えますけれども、これらすべて漱石のうちにあるものです。 (81頁)

 「脱モノローグ」という点では、バフチンポリフォニーの概念を思い起こさせます。ただし、バフチンポリフォニーという概念の場合、各キャラクターの作者からの独立性と、相互の対話性を志向します。むしろこの例に当てはまるのは、漱石の小説『明暗』の方でしょう(島田雅彦漱石を書く』などを参照)。
 それに対して、漱石の読む漢詩(これは漢詩全般に言えることでしょうが)は、作者の多重人格かと疑わせるほどの【ジャンル】の豊富さです。これを書いたのは同じ人かと思わせる豊富さです。蓋し、漢詩というジャンルは、どこかフェルナンド・ペソアの詩作を思い起こさせます。
 ただし、このジャンルの豊富さは、「公私」の区別、つまり、公に仕えるときは政治に積極的に参加し、政界から抜けるときは詩作し思索をするという、士大夫の「公私」の使い分けで説明できるでしょう(詳細は、斎藤希史『漢文脈と近代日本 もう一つのことばの世界』を参照)。「戦に駆けつけようというような詩」や「悲憤慷慨の詩」は前者、「隠遁の生活を喜ぶ詩」は後者と、大まかに捉えるべきでしょう。

漱石漢詩に、古井由吉を見る■

 ここでは陽のものである馬に乗ろうと思ったのに、間違えて陰である牛の背に乗ってしまった、とそう取れる。私は小説家であるゆえか、すこしひねって、馬と間違えて牛にまたがったところが、牛が馬の気になって、いなないて走り出した、と読みたい。 (127頁)

 「秋の声」とは、風を意味します。風ですけれども、秋の風の音に混じって、いろいろな声が、悲しみの声や恨みの声、後悔の声などが聞こえてくる。あるいは、季節と季節の戦いの声も聞こえてくる。 (154頁)

 前者は、漱石のある漢詩に出てくる馬と牛に関する話です。後者は、「秋声」という語に関する言葉です。
 前者では、著者の小説観が、にじみ出ています。人の方が馬と間違えて牛にまたがったのに、その意を汲んでか、牛が馬の気になってしまう。まさしくフィクション独特の論理とも言うべき展開。古井先生の小説そのものじゃないでしょうか。
 後者は、欧陽脩『秋声賦』に関する言及です。「いろいろな声が、悲しみの声や恨みの声、後悔の声などが聞こえてくる」というあたり、やはり、古井先生の小説を思わせます(「聞く」という主題も含めて)。ちなみに、徳田秋声の「秋声」は、欧陽修の『秋声賦』から来た季題に由来するようです。
 これ以上引用しませんが、漱石の「幽霊の雛」の話(60−66頁)は、必見です。弱る主人公と、看護する女二人、こっちは二人の心情も考えもわからないのに、あちらはこちらの考えがすべてお見通しに思える、という非対称的な構図。まさに、フィクション独特の論理を見るべきです。


(注1) 

 漢詩は、漱石漢詩に限らず、きわめて不定法的な表現なのです。これはこれ、と限定せずにさまざまな形を一つに包括していくような仕方です。読んでいても、過去なのか現在なのか未来なのか、時制はわかりません。(略)主語は何か漠然として、いずれとも定められないことも少なくない。 (111頁)

 この点もまた、漢詩の多義性を高めるものです。だれのことか、いつのことか、定まっていないため、多義的になります。