ランシエールと、「分け前」の政治 /入不二基義『足の裏に影はあるか?ないか?』(3)

 著者・入不二氏の「政治」論と、ジャック・ランシエールの「政治」論と比較してみましょう。その前にまず、ランシエールの政治観の紹介を。

 まず、ランシエールの「政治」観とは、どんなものか。かいつまむと、「俺たちにだって、権利がある、分け前をよこせ」です。
 例えば、彼の民主主義観。それを簡単に言えば、「民主主義は、最初から不自然な存在である」です。つまり、民主主義は秩序を乱す要素があり危険だ、という批判があるけど、そもそも最初から反自然的なのであって、民主主義が秩序を乱しているとか何いってんのよ、ということです。彼にとって政治とは、秩序や自然性を揺るがす存在・行為なのです。
 ある成り立った秩序(共同体)に対して、その恩恵(分け前)に預かれる人間と、そうでない人間がいる。そうでない人間は、資格も権利もないのに「共同体を代表し,共同体の分け前を得ようと過分に権利を言い立てる」。そのとき「分け前を自然に得る者」たち、つまり既得権を握る者達と、争います。この分け前をめぐる闘い、衝突が、ランシエールの考える「政治」の姿といえます (たぶん)。

 分け前をめぐる衝突のとき、問題になるのは言葉です。何故分け前を得られないか?それは、「貴族の口から出る言葉が思慮ある正しい言葉として,民衆の言葉が単なる快苦の動物的表明として聞き取られる」ためです。つまり、既得権側の思慮ある・行儀よい言葉に対して、権利なき要求者側は、思慮なき野卑な言葉しかしゃべれないと見なされるのです。
 しかし「実際には,貴族と民衆の口から発せられる言葉は同じコードに基づいている。同じコードに基づいているからこそ,そこに支配が成立するのである」。両者は、究極的には同じコードで語ることが可能である、つまり、権利なき要求者側も「思慮ある・行儀よい言葉」を獲得可能です。それは、獲得される可能性のある対象です。そして、獲得された「思慮ある・行儀よい言葉」(のコード)は、共同体の秩序を乱しにかかります。(注1)

 著者・入不二氏の「政治」観で強調されるのは、公共空間の強力さと、「市民社会的で安全な言葉」を使わねばならないという拘束性です。それに対してランシエールが強調するのは、既得権側と要求者側との「権力の非対称性」と、それがもたらす抗争です。権力の非対称性とはつまり、既得権側は自分たちの要求を建前で覆い隠しやすい立場だけど、要求者側はそう簡単に建前など作れない立場だという、このアンバランスです。

 両者は、実は似たことを述べていますが、強調する側面が異なるのです。片や秩序と規則の拘束性、片や力の非対称性と抗争の反秩序性。
 もちろん、このような差が出たのは、二人の「政治」観の違いだけではありません。対称としている「場所」が異なるのです。
 ランシエールが想定しているのは、議会や法廷の外、デモや非専門家(民衆)の世論といった存在です。ゆえに、権力の非対称性の話になるのです。それに対して、著者・入不二氏の想定しているのは、「『覆面問題』が隠すもの」という主題の通り、議会内部の賛成は・反対派という、一応の対称性です。場所や状況によって、「政治」のどちらの側面を強調すべきかは変わります。

 例えば、仏国の「スカーフ(ブルカ)」問題の場合、議会左派の中にさえ、ブルカを公的空間から排除することに賛成意見が多いと聞いておりますので、ランシエール的な「政治」がメインとなるでしょう。
 では、外国籍の日本在住者への「子供手当て」支給資格の是非の問題はどうか。これについては、また機会のあるときに書くことになるでしょう。


(注1) 一部の引用も含め、全般にわたり、「ランシエールひとり読書会(2)」(『Finnegans Tavern』様)を使わせていただきました。感謝の至りです。