昭和二十年お前が言うな大賞 「新聞社様各社」  -有山輝雄『占領期メディア史研究 自由と統制・1945年』(1)-

 江藤淳が亡くなって大分経ちますが、この前とある人と話してたら、『閉された言語空間』の話題になりました。内容は詳しく覚えてませんが、とにかくGHQのせいだ云々、とかいう話でした。
 『閉された言語空間』以降も、ちゃんと研究は進んでいて、少なくとも江藤の描き出した世界観通りのものでないのは、歴史学的な共通認識だと思うのですが。本書の登場当時から、既に本書への批判はちゃんと存在していたはずで、柄谷行人とかもいろいろ書いていたはずなんですけどね。

 しかしまあ、こちらもこの戦後の検閲の実態について深く知っているわけではないので、たまたま手元にあった有山輝雄『占領期メディア史研究 自由と統制・1945年』をたどって書いていきます。本書は、メディア研究の本を良く出してる柏書房の本です。


 本書であしざまに描かれるのは、GHQではなく、日本の新聞社の方です。
 今現在では、戦中戦後の新聞社の"醜態"は良く知られているでしょうが、本書はなにぶん、1996年に出た書物なもので。
 ともあれ、見ていきましょう。


■新聞社どもが、説教臭すぎる。で、自分たちのことは当然棚上げw■
 まず目に付くのは、日本の新聞社の"醜態"。例えば、1945年8月の『読売報知』の終戦後の社説(110、111頁)。
 この社説は実は他の『朝日』や『毎日』に比べれば、まだ"先進的"な方だったのですが、これが酷い。日本による中国及び東南アジア諸国への侵略に対する反省がないのは、まだ差し引いておきましょう。しかし、戦中の「全体主義」体制に対する分析は欠けていて、それだけならまだしも、

民衆を「自主自立」を欠くと規定した上で頭ごなしに「民主主義的鍛錬」を教育しようと押している趣き

があるという始末。自分達の自己反省ゼロ、それでいて"自立自主"が民衆にない、とかいっちゃう。見事な棚上げです。

 酷いのはもちろん、『読売』だけではないわけで。例えば『朝日新聞』。

自らの活動を縛っている法規制や情報局を自らの運動によって撤廃させるのではなく、占領軍の力によって撤廃してもらおうとしているのである。(166頁)

まあ、これだけなら、"新聞社も大変だったんだな"で済ませてもいいのかもわかりません。しかーし、この新聞、紙面ではぬけぬけと、「国民自らの政治的自由を取り戻し、確固不動のもの」としなければならないとか、ほざいているわけです。どの口が(笑)。
 自分たちを棚に上げることにかけては、新聞社は天性の才能を発揮するようです。マスメディア様たち、見事なまでに「自主自立」してません。

 彼ら新聞社は、「秘密主義」の前に沈黙し、自由を求める運動を起こしえなかった自身を反省もせず、占領軍から贈与された"自由"を追認していながら、国民に対しては指導者面をして、読者に"放埓"を諌めたり"萎糜沈滞、無気力"を批判したりしていました(286、287頁)。
 皆様、声を合わせて一言。 「お前が言うな!!」

 以上、敗戦直後でも上記の新聞社たちは、散々その民衆を煽った反省はないままに、これからも民衆を"導く=煽る"という姿勢でいたようです。この高飛車な姿勢、現在においてもぜんぜん変わってない気がしますが(笑)。
 実際、高見順は、8月19日の日記で、新聞は"厚顔無恥"だと批判しているのです(112頁)。むべなるかな。

 次回は、本題。江藤淳『閉された言語空間』に関して、書いていこうと思います。

(続く)