実は微妙にゆるかった言語空間 -エガシラさんと占領期初期の検閲状況- 有山輝雄『占領期メディア史研究』(2)

 震災より10日以上を過ぎてなお、大地震が与えた傷はまだ癒えておりません。そんな中、江頭(えがしら)さんが、物資不足の福島県いわき市に自ら運転して支援物資を届ける、という偉業を成しました。
 その偉業に経緯を評し、今回は別の江頭(えがしら)さんについて、書いていきたいと思います。江頭敦夫(筆名:江藤淳)さんです。
 ・・・というか、以前書いた奴の続きです。すいません。


■有条件降伏に関する異論■
 江藤といえば、"有条件降伏"の件で有名です(わかんない人はおうちの人に聞くか、ググってみてね)。
 本書では、江藤の主張に対する全面的な批判は行っていません。しかし、その一部主張には異論を書いておられます(191頁)。

 例えば、江藤は「『朝日新聞』の紙面を見るかぎり、敗戦直後の日本人がポツダム宣言受諾による降伏を有条件降伏、やがて開始されるべき連合国軍の占領を保証占領と考えていたことは、ほとんど議論の余地がないもののように思われる」と書いています。
 さらには、当時の日本の報道機関が「正当にも、ポツダム宣言第十三項が明示する通り、「無条件降伏」したのは「全日本軍隊」のみで、政府と国民は同宣言の提示した条件を受諾して降伏したのだと解釈していた」とも主張しています。
 
 実際はどうだったのか。当時の報道機関は、有条件降伏を認めていたのでしょうか。
 当時の朝日新聞の論調は、確かに、日米が対等であるかのようなものでありました。これは、有条件降伏を支持する要素にも思えます。
 しかし、当時の『朝日新聞』の論調はあくまで、"国体護持"の体裁を取り繕うための虚勢ではなかったか、と著者はいいます。
 実際朝日新聞社は、9月19日(プレスコードが出された日です)、占領軍と対面した際に、有条件降伏等の主張を微塵もしていないのです。
 まさか、散々ディスっといて、御対面したとたん怖いんで撤回しました、とかじゃないよね(笑)。要するに、"有条件降伏は当時の日本のメディアの共通認識"という江藤の主張は、根拠の薄いものです。こんなチキンな報道姿勢じゃ、有条件も何もあったもんじゃないですし。


■検閲は国民に秘密にされてた、というわけでもなさそうね■
 もっと根本的な異論も挙げてみましょう。
 江藤の良く知られている主張として、CCD(民間検閲支隊)による検閲の存在は日本人には一切秘密であって、検閲される側も検閲に言及しないという義務を遵守させられた、というものがあります。これが現在に至るまでの日本人による"タブー"になった、と主張する人は現在でもいます。
 この話については、『閉ざされた』出版当時から、すでに異論の出されていたことなのですが、本書の場合はどう反論してるのか。

 確かに、伏字などで検閲されたという証拠を残すことをすら認められなかったし、後には検閲への言及は削除対象でした。しかし、CCDが最初から検閲の存在を秘匿する意図を持っていたというわけでもありません。
 江藤自身書いていますが、10月8日からの東京有力紙への事前検閲実施は、日本の新聞に報道されているのです。えっ。しかもどうやら、この検閲開始を伝える記事を、占領軍が慌てて差し止めようとした事実はありません(221頁)。

 しかも10月11日には『読売』が通信検閲実施を報道しているし、一般紙ではないが日本新聞連盟の機関紙が、11月1日号に、「米軍の検閲をパスして印刷に附される迄なごやかな米軍検閲所風景」と題された記事が掲載されたりしています。おいおい。検閲はぜんぜん秘密じゃなかったのです。
 少なくとも、占領軍による検閲の事実は、初期は公然としていた、と著者は言います(223頁)。まあ、『読売』が報道していたことを考えると、詳しい人は絶対知っていたんでしょうね。言語空間の閉ざされ具合ってのは、こんな感じだったみたいです。

(続く)