進藤榮一『敗戦の逆説』を、またしても。
著者は、日本戦後の自民党と(戦前から持続する)中央集権的官僚制による支配には批判的。
一方で、戦後占領期の"財閥解体"と"持株会社の禁止"には肯定的で、それによって達成された"中小企業の育成・強化"は擁護している(180頁)。
そして、"農地改革"と"労働改革"とあわせて、これらが日本の"市民社会"強化につながったのだという。
シャウプ税制による累進化税制にも、これが日本国内の内需を強めたとして、やはり肯定的。
こうしてみると、著者は"市民社会"という概念に拘束されている感がなくはない。(事の詳細は、植村邦彦『市民社会とは何か』をご参照。)
通常、「ソシアル-リベラル」の対立軸で考えるなら、中央政府による再配分がソシアルの前提となるが、著者は、中央集権的な官僚制には否定的だ。
それどころか、地方分権に肯定的、と。
一方で、累進課税には肯定的。その一方で、地方分権には肯定的、と。
はて、どうなっているのか?
整理して考えると次のようになるだろう。
?著者のリベラルな面
・中央集権的な官僚制(および保守的な自民党との連携体制)に対して批判的
・地方分権に肯定的
?著者のソシアルな面
・財閥解体や持株会社禁止といった政策に賛成
・労働改革(労働三法)や農地改革といった改革に賛成
・累進課税強化に賛成
以上から、やはり、著者は、"市民社会"という概念のはらんでいる矛盾に、拘束されている嫌いがある。
ただ、"民主主義"というのを念頭に置くと、この問題も理解できなくもない。
?の場合、これまで自分達の政治的な意思を妨げていた官僚制には批判的になる。
?の場合、民主主義の目的たる"市民"の経済的自立を促進するので肯定的。
こう考えれば、著者の"ねじれ"も理解できなくはない。
戦後改革の後も、他の諸改革に比べると、中央集権的官僚制は残存されたままになった。
むろん、問題は官僚制だけにあるのではないし、ずっと与党だった政権党にだけあるのでもない。
社会民主主義とは、ソシアル(国家による再分配)と民主主義をいかに調和させるかが肝心になる。
言い換えるなら、「再配分を行う中央政府と、国民(市民)とが、いかにして相互信頼の関係を構築していくか」、ここが肝心。
で、その再分配と信頼構築を、"会社組織"に依存したまま、戦後は歩を進めていった。
今、そのツケを支払っている。
著者は、多分、そのことに気付いていないような気がする。
(ソシアルにとって重要な、民主主義との関係については、市野川容孝『社会』が、とりあえず必読か。)