大西巨人『春秋の花』を読む。(作者のHPに、全文あり)
アンソロジー集。
教養がにじみ出てて、お見事。
これは、中野重治の短篇からの引用。おれは上り坂を上って行くぞ。「死」のことはわからぬ。わからぬけれど上り坂だ。
すごいのは、これを心内語としてつぶやいているのが、50歳ほどの男性(当時の中野も同じくらいの年齢)だということ。
若いな。
吉田松陰の一首。連霖ニ熟麦残リ 激水ニ新秧漂フ 農事方ニ此クノ如シ 吾ガ行、何ゾ傷ムニ足ランヤ
「吾ガ行」とは、安政の大獄の間、萩から江戸へ護送されたことを指している。
「連霖」は長雨、「秧」は稲の苗。
『留魂録』の「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」の一首よりも、実に好ましい。
魂なんぞは、どっかに勝手に置いてくれればいいのだから。
それより、「熟麦」や「新秧」のような生命を、肯定したい。
石川啄木。われはこの国の女を好まず
読みさしの舶来の本の
手ざはりあらき紙の上に
あやまちて零したる葡萄酒の
なかなかに浸みてゆかぬかなしみわれはこの国の女を好まず
舶来の本の紙/この国の女 この国にいる読み手(多分男)/この国の女 舶来の本の紙/誤ってこぼした葡萄酒 染み込んでいかない悲しみ/女を好まないこと。
読むと、舶来的なものになじむことのない自分の悲しみと、それでもこの国の女を好むことの出来ない自分との"間"を、詠んでいるようにも見える。
・・・というか、誤って葡萄酒こぼしたなら、さっさと本を拭けよ。なかなか染み込んでいかない、とか、お前ド貧乏だろ、当時の洋書高価だろ、何してんのよ。
せっかくの高価な洋書をだめにしちゃう行為、この国の女を買う(啄木の買春行為による浪費は有名)という行為。
もったいないことなのに「かなしみ」だという捻った感情表現と、「女を好まず」という浪費に対する逆恨み(?)とが、なんか結びついてしまう。
佐藤春夫の詠み。顔はまっしろけで
こころは魔もの
抱かれ心地はこの上ないが
聞けば逢ふには命がけ
リズムがとてもいい。
雪女とかも、こういう"女=魔もの"的な典型ですよね。
ファム・ファタール的な。
(ちなみに、佐藤自身の体験が、この詩の原型になっているようです。)