公費投入が、実は"ニッポンの大学"を変える可能性がある件 -矢野眞和『「習慣病」になったニッポンの大学』を読む 後編-

 矢野眞和『「習慣病」になったニッポンの大学』を読む。続き。



 著者は、世間のお偉いさんの(上記のような)「無理に大学に進学する必要はない」という主張を批判する。だって、高校や専門学校の就職は大学よりもっと厳しいから(213頁)。大学進学を目指し、親がそれを支援するのは、むしろ合理的な判断。

 確かに世間から見れば、大学に入らないほうが合理的に見える。大学は無駄に多いし、学生は勉強しない、じゃあ、大学入らなくていいだろ、と考えるから。
 でも、親と学生からすれば違う。就職で有利なのは、結局大学をきちんと出ることだ。むしろ、大学にちゃんと入って卒業することに、経済的な合理性がある。
 この二つのギャップが、全て。

 一方で、親や学生が授業料値上げしても、それでも大学に入りたがる(親が入れたがる)のも、他方で、世間が大学の授業料の値上げに無関心なのも(税で補って学費安くしようと考えないのも)、こうしたギャップが背景にある。



 日本のシステムというのは、高卒の十八歳で大学に入るものだという主義、入学したら簡単に大学卒業できる主義、親が学費を負担しないといけない主義、の3つの合成されたもの(159頁)。
 これが、日本的雇用システムと補完しあっていたわけだ。つまり、ちゃんと4年で卒業した"真面目"な人間だけを新卒として入社させ、大学生にはそれ以上の特定の資質は問わず、職業訓練は社内でやります、という雇用システムと、とても補完的だった。
 企業は社内で職業訓練をやるから、大学に求めるのは、4年でちゃんと卒業する"真面目"な(色の付いていない「新卒」の)人材。だから学生は4年で卒業させないといけないし、中退しちゃいけない。学生は当然、4年でスルッと卒業したい。一方大学も、学生商売で、学費を少なくとも4年間ちゃんと払って欲しいので、そう簡単に退学させられない(むしろ沢山入学させて、学費を稼ぎたい)。だから、卒業は簡単になる(257頁)。
 一方で、親が学費を負担しないといけない以上、お金を出せるのは、学生の自立前になる(学生がバイトで稼いでそう簡単に入れるものではない)。なので、大体高卒の18歳くらいの時になる。

 そんな、著者のこの問題の解決方法は、大学の授業料への公費投入である。



 著者曰く、消費税1%分あれば、大学の無償化は賄える模様(267頁)。(まあ、財源は、消費税だけでなくていいと思うけど)
 むろん、税金使うからには、卒業をきちんと規制しないとね (つまり、厳しく審査)、ともいっている。国民が納得するルールを、と。ここが実は重要だったりする。
 また、逆に言えば、学力と意欲があれば、年齢関係なく誰でも学べるようになる。
 公費を投入することで、18歳以外の社会人も学ぶ機会が出来るし、財政的に安定した大学側も余裕が出来るから、卒業を厳しくしても困らなくなる。
 方法としては、正しいといえる。

 ちなみに、著者は更に、将来の人材需要に合わせた学部の構成の計画化、学長や学部長ら役員公募化、教員の出身大学の多様化、などの方法も提言してる。 



 ただ、学費原則無料の欧州でも、財政難はある。
 オーストリアの場合もそう。そこで、1989年に「高等教育拠出制度」を導入した。
 学生が一部の学費を負担する制度。大学進学すると、それによって得られる所得の便益は本人に帰属する、だから、本人も一部負担しろ、ということ。
 ただしこれ、全学生が負担する方式で、卒業後に本人が返却する。返済額は本人のその所得によって変動し、失業していたり最低所得水準にみたない場合は、その年の返済額は免除になる。しかも返済額は、本人の所得に応じて、3〜6%まで、6段階。日本の奨学金(つーか学生ローンw)より、ずっといい制度だね。



 hamachan先生も引用してたけど、
「就活の話になれば、コミュニケーション能力が大事だと繰り返されていますが、若者のコミュニケーション能力を高める最良の方法は、大人と日常的に会話する機会に触れることです。そんなに大騒ぎする問題ではありません。22歳主義に閉じこめられている異常な日本の大学の空間が、空疎な就活論を繰り返させています。」(276頁)
 社会人経験のある大学生が沢山いる大学の方が、人生経験にも、将来の就職の時にもずっと有益ですよね。