王前『中国が読んだ現代思想』を読む。
中国語では、ハイデッガーのDaseinの訳語は、「親在」らしい(熊偉による訳語)。
「親」は、身をもって、自ら、親愛などの意味で使われるため、ハイデッガーの言う、「情態性」の意味と一致していると言う(52頁)。
「情態性」っていうのは、"気分"のこと。
ハイデッガーは、人間にとって受動的にか対応できない事実として、"気分"というものは立ち現れている、としている。
Wikipediaが説明するところの、「自発的に惹き起こされるものでも外部の刺激に自動的に反応するのでもなく、世界内存在という在り方として世界内存在自身から立ち上がってくる」ものである。
それは、気付けば"既に"、立ち現れているものである。
それは他人が与えるのでも、自分自身に与えようとして与えられるものでもない。受動的なもの。
この、「既にあるもの」、「受動的にしか対応できないこと」、という"根源的なところ"が、「親」ってことなんだろうね。
この本にも出ていたが、1980年代は、90年代に比べると、ずっと日中の仲がよかった時代だった。
懐かしい時代。
デリダが、中国に滞在して講演行脚をしていて、ある場所で、"赦し"について講演したらしい。
そのあとの出席者の質問で、デリダは次のようなことを述べている(126頁)。
日中戦争における悲劇的な事件は、自分が講演で取り上げた"赦し" の問題ではない。
まず、"赦す"か否かは、根本的に、死んだ犠牲者たちにしかその権利がない。
そして、日本人が謝罪した後は、和解して健全な関係を築くべきかどうかは、政治と外交の問題であり、デリダの取り上げるような、純粋な"赦し"の問題ではない。
この問題はあくまでも、条件付の問題であって、日中国民と政府が決めることだからだ。
デリダがいうように、"赦す"か否かは、そもそも死んだ犠牲者たちにしかその権利がない、というのは事実ではある。
無論この重大な事実は、加害者側の免責を意味しているのではないのは、いうまでもない。
そして、デリダが、「国民と政府」と述べていることにも注意が必要。
これは、国家間だけの問題じゃない。
日中平和友好条約が、少なくとも中国側においては、国民を置き去りにして、政府首脳先行で結ばれた事実を考えれば、なおさらのことだろう。
ちなみに、デリダの言う"赦し"とは、つまり、「"赦し"とは、赦しえない事柄を"赦す"こと。なぜなら、すでに赦せるようなものなら、それは"赦し"とはいえないから。」ということだろう。
やわらかく述べてしまうと、"赦せるって時点で、そんな簡単に赦せるんだったら、そんなもの赦しのうちに入んないし、そうじゃなくって、赦すのがすごく難しいことだからこそ、それが"赦す"っていえるんじゃないの?"ということだろう。
バーリンの「積極的自由」について、著者は、
と述べている(181,182頁)。近代以降、独裁者たちにたびたび悪用され、将来の世代の幸せ、公正、進歩といった、聞いた限りではたしかに崇高な理想の実現のために、多くの個人の自由や命が犠牲にされたが、しかしその理想は必ずしも達成されていないという痛恨の歴史がある。
これは特に全体主義を念頭に述べられているのだが、「将来世代の幸せ」という点の悪用が、現在、"国の借金"(日本政府の債務)問題でなされているのだろう。
あの問題は、結局、日本国内の再分配をどうするか、という問題なのだが。
(日本の国債はほとんど日本国内で消化されており、それを買っているのは主に、銀行や年金機構等なので、普通に消費税とか逆進性の強いもので支払うことにすると、国内の"持たざる者"が"持てる者"に対して支払う、ということになってしまうわけだ)。
レオ・シュトラウスについて。
彼は、古代の哲学者は迫害から逃れるために、テクストの行間に深い意味を含ませたんで、その秘義的な意味を読み取らないとダメだよ、というスタンスの人。
まあ、そんな彼は、確か神崎繁先生に、"行間云々いうわりに、テクストの「おもての意味」を読むの得意じゃないんじゃね?"と突っ込まれてましたがw
この本の著者も突っ込んでます(214頁)。
分かりやすくいうと、、「シュトラウスさん、あんた、さんざん近代以降のほぼ全ての哲学者・思想家が、間違った方向に向かっていて、自分だけは覚めた目でいる、的なことをいってるけど、それホントなの?」、と。
(但しこの著者の批判は、中国におけるシュトラウスの紹介者(かつ信奉者w)・劉小楓に対するもの。)
確かに、結局レオ・シュトラウスの古代賛美は、ロマン派の人たちの古代ギリシア賛美と同レベルだよね。言っちゃ悪いけど。
著者は、1980年代を懐かしんでいる(222頁)。
あの頃は、文革から解放されて、近代化のためにみんなが頑張り、知識人が理想のために奮起し、官民が一体になり、政府と知識人の間に信頼があった。
みんな学問の遅れを取り戻そうと、何でも学ぼうとするエネルギッシュな姿勢があった。
経済的に発展して、そんなハングリーさがなくなった90年代と比較しながら、著者は、80年代を回顧している。
なんだが、昔はよかった的な居心地の悪い発言ではある。
でも、中国の1980年代という、今の日本ではあまり注目されないこの時代に、中国の隠れた姿を発見できるかも。
なお、タイトルにある、「海徳格爾」については、各自ググってくださいw
(未完)