「あなたがいなくなると悲しい」、あるいは、仏教と自殺の関係について少し -磯村健太郎『ルポ仏教、貧困・自殺に挑む』を読んで-

 磯村健太郎『ルポ仏教、貧困・自殺に挑む』を読む。



 釜ヶ崎で日雇い労働者や路上生活者の支援をしている大谷派の僧侶・川浪さんは次のように言う(65頁)。
 路上生活していた時に、「はじめて寝た日、不安で不安でたまらなかった」、と。

 ヒールの音が近づいてくると、こんな夜中にあるいてるおねえちゃんってだれやねん、とドキッとする。カッターナイフでテントを裂かれる人もいるし、サラリーマンは火のついたたばこを投げ捨てる。怖いのはこっちのほうですよ

 路上生活と、そうでないものとの間に心理的な距離があり、その距離がそのままお互いへの恐怖との転化している。
 路上生活者にこそ、社会に対して、自分の思いを発信する機会が必要なはずだ。
 彼らほど、社会に「聞く耳」をもたれぬ存在はいないからだ。



 本願寺の教学伝道研究センターによると、仏典はぎりぎりまで「生きろ!」と呼びかけている一方、自殺事態については、いいとも、悪いとも、語っていないという(107、108頁)。
 だが、二〇〇八年本願寺派の寺院1万ヶ寺にアンケートをとったところ、大半の寺が、自殺は仏教の教えに反していると回答したという。

 このような現状が、アンケートの中に出てきた「いのちの尊さを法話で話したらひどく怒られた」というエピソードに直結している。
 僧侶がいのちの尊さを説けば説くほど、遺族は「いのちを大切にしなかった」故人が責められているように感じる、というわけだ。

 この事態に対して、どのように教学伝道研究センターが対応したかは本書に譲ろう。
 ともあれ、自殺を悪であるとして片付けることは、自殺を選択しなかった者にとってはよくても、自殺を選択した人やその遺族には、酷なことであるのは間違いない。



 自死をするか否かに迷う人のために、電話相談を受け付けているある僧侶は、次のように言う(105頁)。
 相手が「死にたい」と告げても、「死んではだめ」では、相手は弱音を吐けなくなる。
 そうではなくて、「死んで欲しくない」というメッセージを相手に届けようと努めるのだ、と。

 やすやすと死ぬことを認めるのではない。
 ただ「死んではだめ」と「死んで欲しくない」に大きく違いがある。
 
 大切なことは、相手が自死を選んでしまう、その弱音を、その弱さをこそ受けとめることなのだろう。
 相手を受けとめるとは、相手の弱さを、相手が認めるような仕方で、受けとめること。
 では、いかにして「死んで欲しくない」を相手に伝えるのか。
 究極的には、それは、中島義道が述べていたように、「あなたがいなくなると悲しい」という点に尽きるのではないか。

 「誰かが悲しむ」というのは、例えば"親"が悲しむというのは、結局、その親自身がその一身において「悲しい」といわないと、何の意味もない言葉に過ぎない。
 でも「私が悲しむ」というのは、ほかならぬ「私」がそう述べている。
 あなたとかかわりのなかったこの「私」が、にもかかわらず、あなたの死を悲しむ。

 この、困難で、かつ、大切な一点が、実は重要だと、殊に思う。
 関係を持たなかった人に対して、にもかかわらず、その存在の消滅を悲しむこと。



 ある、野宿者支援のNPOの中の"保証人バンク"の代表を勤める僧侶は、あることに注意しているという(163頁)。
 曰く、

 我こそは正しい、と思ったとたん、自分を支えてくれている仏法を自分の価値観でとらえ返すことになる。しかもそのうちに、協力してくれない僧侶たちを裁いてしまう。坊主だったら行動することが当り前やろもん、と。恐ろしいことです

 これは世俗の人間にも言えることだろう。
 ある"正しいこと"をしている人間が、そのことに協力してくれない人々を裁いてしまう。
 これもまた、恐ろしいことだ。

 もちろん、そんな"正しいこと"を志して行動している人たちを、何もしない自分は棚に上げて、ただただあげつらっているひとも、十分恐ろしい。
 自戒。



 キリスト教団体に比べ、貧困・自殺問題への対策で出遅れている仏教界だが、日本には、コンビニの数倍もの寺院があるという(165頁)。
 寺が変われば、確かに、日本は変わる。