
- 作者: 田川建三
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2004/03/01
- メディア: 単行本
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カール・バルトの神学について。
カール・バルトは、神学的に保守的だった。
政治的には、革新的だったけれども。
バルトは、聖書の中に出てくる「創造信仰」を、"自然神学"として否定した(30頁)。
"自然神学"とは、この大自然を作った神、この大自然を見ればそれを創造した神を知ることが出来よう、という考えのこと。
なぜ否定したのか。
理論的にも歴史的も、この"自然神学"が、キリスト教の専売特許じゃなかったからだ。
対して著者は、専売特許じゃなくて何が悪い、と、自然神学を擁護している。
バルトは、盟友だったブルンナーが自然神学を擁護使用としたとき、「否(Nein)」という本を発行して、批判した。
ちなみに、このブルンナー、戦後にアメリカを弁護し、反共、反ソ連、反中国の宣伝活動を行っている。
要は、神学は多少開放的だったけど、政治的には保守的だったのだ。
バルトと逆だったのね。
ユダヤ教、史上一度だけ、世界宣教に乗り出した時期がある。
地中海世界の諸都市に散らばっていた、ギリシア語のユダヤ人たちによるユダヤ教である。
紀元前3世紀から、紀元後2世紀くらいまで、ユダヤ教は、宣教する宗教になろうとした(45頁)。
実際この宣教により、「異邦人」で、ユダヤ教に改修する人が大量に出現した。
だが、結局キリスト教の方が勢力が拡大した。
やはり、ユダヤ人になれ、というハードルが大きかったらしい。
彼らも、創造信仰を強調して(「世界・自然を作った神」という信仰は、他の宗教にもその要素があったので、それを利用して布教しようとした)、他の地中海世界の人々にも受け入れられるよう頑張ったが、やはり無理だった。
ユダヤ教にも無論、こういった歴史がある。
古代のキリスト教は、終末時に、既に死んだ人間が復活すると信じていた。
だが、それは霊魂が復活するとか言うものじゃなくて、この世で生きていた時の肉体そのものとして復活する、と考えていた(62頁)。
当初のキリスト教は、肉体を肯定していたのであり、グノーシス思想のような、"身体=肉体"否定はしていなかったのだ。
愚考するに、肉体否定は、プラトニズムによるものではないかな、と。
ユリアヌス帝(本書ではギリシア風表記で「ユリアノス」)は、キリスト教を何とか否定して、古代ギリシアの思想伝統を復活させたかった。
だが、そんな試みは、既に退廃していたギリシア側の祭司たちの存在もあって、失敗する。
そんなユリアヌスが最も重視していた(であろう)施設が、「救護所(xenodocheia)」というキリスト教側の施設(125頁)だった。
「よそ者を迎え入れる場所」という意味で、よそから訪ねてくる人間に、宿泊の場所や当座の食べ物を提供する場所だった。
同時に、病人の介護や、身寄りのない年寄りの寄宿も可能な施設だった。
これをフランス語で「hospice」という。
なぜ、キリスト教が古代西洋世界においてあれほど急速に多くの人々に浸透し、帝国の弾圧にもかかわらず成長していったのか。
その答えのひとつが、こういった施設だった。
心だけでなく、こういった生活に関わることを通じて、キリスト教は広まった。
聖書において有名な、ブドウ畑の日雇い労働者の話。
以前、この話について、否定的に書いたことがあるけど、著者は重要なことを述べている。
労働者が仕事にあぶれるのはサボってからじゃなくて、運悪くその日の仕事にありつけなかったからだろう、と(148頁)。
実際、「誰も私たちを雇ってくれる人がいなかった」と書かれてある。
無論、探さなかっただけではないか、という可能性もある。
だが、彼らは日雇いである以上、探さなかったという可能性は低い。
働かなきゃ生きられない身の上だからだ。
彼らの日雇いという身の上は、正直言って見逃していた。
この事実を念頭に入れないと、この話の重大なことを見逃してしまうだろう。
先の話題に出た、「救護所(xenodocheia)」は、ドイツ語では、シュピタール(Spital)という。
ドイツに限らず、こういった「救護所」は、伝統的に、金持ちが寄付をして、そのお金で運営される。
建物はともかく、維持費や人件費はどうやって確保しているのか。
金持ちたちは、自分達の不動産を寄進した。
不動産とは、ここでは、農地のこと。
農地の収入から、維持費は出た。
不動産を所有して、その利益で経常利益をまかなった。
キリスト教は、金持ちだと天国にいけないよ、という"脅迫"によって、金持ちたちに寄付を推進させた。
キリスト教の"脅迫"は現代人には評判よくないかもしれないが、こうした副産物ともいうべき効果ももたらした。
なぜ、キリスト教があれほど広まったのか。
著者曰く、"宗教"から解放されたいためだった。
他の他宗教の場合、金が掛かる。子羊一頭買うのに、牛一頭買うのに、金が掛かる。
これらの動物を犠牲として、神殿などに捧げるのだが、これが金が掛かる。
こんな金の掛かること、やめたい。
でも、文化的伝統だし、やめると、経済的・社会的な権力も怖い。
胡散臭くっても、そう簡単にやめらんない。
だが、"キリスト教"という、集団の運動の中に入れば、やめられた。しかも、無料で。
教義において、キリストがすべての人間の代わりに死んだおかげで、犠牲を捧げる必要をなくしたのだった(216頁)。
キリストが犠牲の代わりをしてくれたおかげで、宗教(そして犠牲を捧げる行為)はもう、必要なくなった。
少なくとも、初期のキリスト教は、"宗教"から人々を解放した。
キリスト教は、ローマ帝国の国教になる以前は、他の人間から、ずっと無神論と呼ばれていた。
神々への信心はもちろん、神々への礼拝も、神々への祭儀も、全部無益としてやめてしまったからだ。
「神々」という複数形への否定はもちろんだが、祭儀さえやめたという点は、確かに間違いなく大きい。
ヨハネの黙示録について。
この書物はキリスト教がローマ帝国の弾圧下にあった時期に書かれたのか?
この問いに対して著者は、これが書かれたのは紀元後1世紀末だろうとして、この時期は年中大弾圧だったわけじゃないという。
この書物が分かりにくい、難解だ、暗号や隠語ばかりだ、という主張にも、大反対している。
むしろ、黙示文学を分かっている人なら、分かりやい文学作品だ。
それに、この黙示録の著者のギリシア語は、母語じゃなくて習った外国語だし、文法もダメダメで、たどたどしいから、分かりにくいのだ(258頁)、と。
一方で著者は、パウロが当時の国際共通語であるギリシア語に何の疑問も持たなかった(例えば、ガラティア人たちの言語・ガラティア語を一顧だにしなかった)のに対し、黙示録の著者は、「どんな言語の者も救われる」と何度も言及していることから、帝国における少数言語の存在に敏感ではなかったか、と推測している(274頁)。
実に興味深い指摘。
下手な英語で書かなきゃいけない人間の悲しみに似ている。
著者は、黙示録のうち、ローマ帝国批判の部分を、優れたものと指摘している。
地中海を経済基盤とした帝国ローマの体制は、一方で、帝国下の弱者全般を虐げている、とこの点を批判しているときの黙示録は、それまでの「黙示文学」としての体裁を逸脱して、著者のホンネがさらけ出されている、と著者はいう。
その社会を分析する視線は、高く評価しているようだ。
『ヨハネの黙示録』って、そういう読み方もあるのね。
有名だが、著者はクリスチャンでありながら、神はいないと考えている。
人間の頭でこねくりあげた神なんぞ、所詮、人間が作ったへたくそな細工に過ぎないし、人間が作れるものが、神であるわけがない、という理由である(325頁)。
ここまで来ると、すがすがしい、と思う。