再び、佐藤亜紀『小説のストラテジー』を読む。
著者曰く、必然性のない店の名前や商標は、小説の古典的な技法では確かに避けるべきものだとされているけど、もし、小説の中でお茶をするのにスタバでもケンタでもなくドトールに行く必然性が、読み手にもはっきり感じられるなら、ちゃんとドトールと書くべきだ、と(105頁)。
必然性とは例えば、地理的な位置とか、客筋とか、その雰囲気とか、になるらしい。
この必然性というものを、著者は強く問うている。
実に正統派な意見ですな。
そういや、ポーの詩論も、こういった「必然性」を重視していましたよね(自作・『大鴉』を用いて。)
ドトールの場合チェーン店だから、地理的な位置というのは難しいかもしれない。
客筋と言うのも、難しいし、雰囲気ともなると・・・どうなんだろ。
ケンタッキーとかだと、鶏肉を食べさせる店なのだから、その食べ方によって人物の性格や特徴を引き出すことが出来るかもしれないけれど。
(コールスローを頼むか頼まないか、というのでも人物の特徴は出るだろうしw)
ドトールの場合は、ドトールにすべきかスタバにすべきかっていう選択で登場人物を迷わせることで、物語を動かすのが一番かも。
(まあ、タリーズをどうするかはご自由にw)
プラトンは、フィクションと言うものの本質と、「危険」を良く知っていた(132,133頁)。
フィクションの読み手は、「真」が「偽」と対決し、「偽」を倒すまでの遅延において興る運動を堪能する。
そこでは、「真」の勝利に至るまでの運動そのもの、そして、運動に伴う振幅や対立や葛藤が重要である。
そのためになら、究極的に、「真」がどうでもいいとさえいえる(127頁)。
(なお、フィクションにおける「運動」ということについては、ヒッチコックの映画とマクガフィンを想起せよつまり、運動が目的であって、マクガフィンの中身なんてどーでもいいのよ)
以上の点を、プラトンは良く知っていた。
だからこそ危機も感じていた。
「真」をないがしろにされちゃ、プラトンとしては困るからだ。
プラトンの考える「真」(イデア)を中心とした社会の理想的あり方は、フィクションのあり方と対立している。
逆に言うなら、プラトンが理想としない社会こそ、フィクションにとって最適の土壌だとも言える。
近代小説がポリフォニックだと述べたバフチンは、近代小説が本質的に民主的だと主張したが(134頁)、まさにその通りだろう。
バフチンの小説観からすれば、日本の小説の殆どは、詩、とくに抒情詩になる、と思う。
見たまま感じたままを、余計な知恵に汚染されない自分の言葉で書くこと、というのが、まさに、バフチンの言う詩(叙情詩)の定義になる(147頁)。
バフチン的には、まったく新しい事柄を、まったく新しい書き方で書くということは、詩(抒情詩)の本分であり、小説の本分ではない。
とすれば、日本近代文学の歴史の主流は、抒情詩の歴史になってしまうかもしれない。
志賀直哉も、三島由紀夫も、川端康成も、たぶん、抒情詩のジャンルに入ってしまうだろう。
そこからずれるとすれば、夏目漱石(『猫』や『明暗』)や、大江健三郎(作者自身と相反する人物を描く時のあの不思議な輝き、そして言葉の語りと内容のの猥雑さ)であり、ことによったら大西巨人(インテリ風味だが、『神聖喜劇』はポリフォニーではないかな)が挙げられるだろうと思う。
著者は、ヴォルテール『カンディード』こそ、描写より説明を重視する、ということが悪弊にならない事例だと言う(168頁)。
説明重視で、描写を省き、紋切り型を用い、飛躍が頻出し、人は沢山死んで沢山殺されてと、すごい速い速度で展開されるこのフィクション。
立体性を失い影絵の人形のように平板で軽い人物たちは、近代小説におけるお約束(描写を重視し、立体性・具体性を満たせというお約束)に反している。
しかし、ヴォルテールがそのように書いたのは、「ヴォルテールがリスボンの大地震とそれに続く津波の被害で痛感した人間の生存の根本的な条件」が背景にあった。
著者は、描写を説明より重視できたのは、まだ全ての人間が立体的で具体的なものであることを妨げられなかった幸福な時代の話ではないか、という。
「六千人とか六百万人とか二千万人とかの規模の事故を経験した後で、自分を十全で立体的な人間だと考えるのは、ひどく困難なことです。」(221頁)
著者は、本書全体を通して何だか、ミメーシス(描写)よりも、ディエゲーシス(説明)に軍配を上げている気配がある。
ただし、それは「全ての人間が立体的で具体的なものであることを妨げられなかった幸福」を背景とするミメーシスであって、例えばクロード・シモンのような、具体性が却って立体性を壊してしまうようなミメーシス(描写)ならば、おそらく認めるだろうとも思う。