齋藤希史『漢文スタイル』を読む。
記事の中に、重複する箇所がいくつもあるけど、それを差し引いても実に面白い。
中国における隠者たち、隠遁して政治の舞台から隠れて生きる人々。
陶淵明とか、想像するとわかりやすいと思う。
この隠者たちは、前代の隠者の伝記を読んで、それに注を施したりしている。
つまり、書物によって、隠者は再生産されているのだ(19頁)。
隠者の伝記を読み、それをなぞった文章を書き、実際に隠者の生活を選ぶ。
陶淵明の「五柳先生伝」がいささか諧謔みを交えて書かれているのは、そのためだったりする。
実に面白い指摘。
人は、隠者を真似て、隠者になるのね。
謝霊運の場合、詩によって美を見出すだけでなく、山水に手を加え、更なる美を実現することに躊躇しなかった(43頁)。
別荘や庭園の造築に熱心で、数百人の従者を連れて木を切り倒しまくったらしい。
土木干拓事業も行った。
「山水詩」の祖は、こんな人でもあった。
自分でめでる風景を大規模につくちゃったわけかw
六朝時代は、詩文が詩文としての価値を確立した時代だった。
逆にいうと、詩文が政治の外に放り出された時代でもある。
謝霊運は、政治から放り出され詩作に注力するしかなかった。
ただ謝霊運は名門の出で、その才能もあって、プライドが高かった。
その才能を驕る面もあった。
謝霊運には北征と中原の回復を悲願とする政治的理念があり、それは、江南にいる現状のままでよいと考える当時の政界では、異端的だった。
名門での天才ゆえに傲慢、ゆえに疎まれる、その典型的な人が、謝霊運だった。
あ、ちなみにイケメンだったそうです。
直読と訓読という問題。
荻生徂徠は、この二つを対立的に取り上げてしまった(106頁)。
別に、二つ両方やればええやん、と著者はおっしゃっておられる。
なのに徂徠先生は、漢文を「他者(中国)の言語」として規定してしまい、自他の境界を言葉の中に作ってしまう結果を招いた。
徂徠先生の罪は重くね?というのが著者の仰せになる所だ。
っていうか、訓読をするってのは、一回ごとに更新される読みの行為であって、与えられた読み下しを読むことじゃない(109頁)。
つまり、訓読っていうのはあくまで訳読なわけだから、読み下しは何通りもあるはず。
たまたま書き留められた読み下しは、いくつもある読みの可能性の一つに過ぎない。
なのに、近世後期以降、教育の手段として広まった素読によって、書き留められた読み下しの記号に、訓読が縛られ、だんだん狭められて規定されてしまったってワケだ。
確かに、訓読の音声が日本語を豊かにしただろうし、語彙だって増えただろう。
でも、それは、訓読の持つ可能性とはまた別のことだ(111頁)。
ちなみに。
著者が韓国で購入した漢詩選は、横書きのものだったらしいけど、注も最小限で、訳文も鑑賞もなかったらしい。
それでも、「詩を楽しむのに不自由はない」。
もちろん、自由に楽しく読むためには、訓練が必要だ。
逆に言うと、自由に、楽しく受容するためにこそ、訓練っていうものの存在価値がある。
人を自由にするため、楽しませるためじゃない訓練なんて、意味がないんじゃないかな。
(あと関係ないけど、「働けば自由になる」っていうけど、マトモな雇用があるから自由になれるんだよ。)