「士大夫」という非ナショナリズム性、そして他者から「見られる」ことから生まれたナショナリズム -ついでに『敗戦後論』について少し- 齋藤希史『漢文スタイル』(中編)

 齋藤希史『漢文スタイル』を再び読む。



 なぜ、著者は、「漢文脈」にこだわるのか(「漢文脈」って何?ってひとはググってね)。

 幕末・明治期の人、竹添井井『桟雲峡雨日記』(中国・蜀地方に滞在していた時の日記)に言及して著者は言う。
 彼の記述の中には、「日本ではこうなのに中国ではこうだ式の文化論はない」、と。

 士大夫に国境はないのである。 (136頁)

 もしかしたら、著者は、国家という近代的な枠組みを相対化するものとして、漢文脈を考えているのではないか。
 おそらく、それは正解だろう。
 もちろん、漢文脈には、身分格差といった限界があるかもしれないけれど、一方で、"越境"という可能性も残す。
 そういった可能性が、この「漢文脈」には賭けられている。



 対する、後の世代に当たる森田思軒の訪中記事「訪事日録」の場合、日中という違いはアタリマエのものとなっている。
 彼の場合、「漢文」の伝統を離れた代わりに、現地での「実感」に頼り過ぎている嫌いがある(141頁)。
 彼の書きぶりに、「あらかじめ「支那人」を評価づけようとする視線」が読み取れる。
 隠された"上から目線"なのだ。

 
 森田は、「訪事日録」を新聞の連載記事として書いた。
 ここにあるのは、新聞記事の「事実を伝えるように見せることで、それが依拠する枠組みを強化する言説」であり、「枠組みを隠蔽した現場の印象としての事実」だろう(143頁)。
 要するに、あらかじめ自分が持っている先入観を隠し、自分が最初から主張したい結論をも隠して、現場での「実感」を意識的・無意識的に取捨選択し、これを恰も中立・公平であるかのように書き記す、あの方法だ。
 本当の「実感」なら、何らかの枠組みなしでは不安定になってしまうし、むしろその不安定さがリアリティを保証したりするのだけど、報道と言う仕組みがそれを許さないのだ(森達也の本を読んだことのある人なら、納得してくれよう)。



 鴎外ら歴代の渡欧者を見て、著者は言う。

 近代日本の自意識は、国内において集団的に醸成された自意識であるというよりは、こうして、海外に滞在した留学生たちによって形成された自意識が国内に還流し、反復強化されたものであると言えるのではないか (152頁)

 「近代の」と言う限定つきならば、その意見は正しいように思う。

 幕末以前の場合、清朝(中国)と本朝(日本)という枠組みで強化され、自分達の独自性を誇ることで成立したものが、前近代の「自意識」と言えるだろうと思う。
 つまり、自他を比較するという"見る立場"としてのみ自己を保持するような、自意識と言える。

 しかしこの自意識は、徐々に、近代日本の自意識へと成り代わっていくことになる。
 例えば、留学生だった鴎外や漱石の場合、彼らは(西欧という優位者によって)「見られる存在」となった。
 すなわち、外から「日本人」として見られる存在になることによって、「日本人」としての自分を身に付けていく。

 見られる存在としての自分を発見し、その視線を内面化していく経験、これは著者も言うように、幕末の渡欧者には見られず、近代の留学生たちに見られるものだと言える。
 (もちろん、この「日本人として他者に見られる経験」というのは、幕末期から潜在的にあったものであろうし、それが近代になって顕在化したという見方が正しいとは思う。) 



 そういえば。
 昔、『敗戦後論』論争と言うのがあって、そのとき丹生谷貴志は、個々の日本人は、国内的には日本人なんていう自意識はないかもしれないけど、海外から見たら有無を言わさず日本人だろう、という非対称性について、重要な指摘を行っていた(と記憶している)
 我々はまず、他者(日本人以外)に対して日本人であって、少なくとも、それを忘れた議論などナンセンスだろう、と思う。
 だから、『敗戦後論』の「他の国では左派でも右派でもそれぞれが全体の代表としてふるまうことが可能なのに、日本では左派と右派は議論が不可能で、人格が分裂したジキルとハイド状態にある」、「この統合失調状態を解消する処方箋として筆者が提案するのは、まず国内の戦死者を汚れたものとして追悼することだ」という風に要約出来るこの議論(こちらの記事を参照した)は、その重大な瑕疵を持っていると言える。
 もし「統合失調」を解消したいんだった、やるべきことは、国内のねじれの解消云々というより、自分たちを統合する「他者の視線」を意識することにあるんだからねえ。

 また機会があったら、これについて、何かを書いてみたい(丹生谷が述べたことを、正確に覚えていない自分が恨めしい orz)。