『純粋理性批判』が読みにくい理由

■『純粋理性批判』が読みにくい理由■

 彼はみずからラテン語をドイツ語に翻訳しながら執筆を続けていた。そのさい、構文もずいぶんラテン語ふうになっていて、そのままドイツ語で読むと奇異なところもあるようです。
 例えば、ラテン語は文章の区切りがはっきりせず(句読点がなく、大文字もなく)、どこまでも続くのですが、時には一ページを超えるカントの異様に長い文章もその「影響」と思われる。
 […]
 書き始めるや(岩波文庫にして上、中、下合わせて千ページ近い)浩瀚な書物を四〜五ヶ月という信じられないほどの猛スピードで完成してしまったのです。
 そのため、やはりわかりにくくなったのではないかと本人も気にしていたようですが (某書より引用)

■無限は「理念」(πとか。)■

 われわれが概念において一挙に理解している全体性は、すべて「現にたどること」によってとらえられる有限の量と区別して「現にたどること」によってはとらえられない量、すなわち「理念」という身分に甘んじるわけです。 (某書より引用)

■無限の話、空間(有)を取り囲めるのは空間(有)だけ■

 ある有限な空間Rで止まる場合、そこで世界は限界に達するわけですから、その外は無となり、無がRnを条件づけることになるが、無は「条件づける」という作用を持ちえないはずだから、それは背理だということ。 (某書より引用)

ヘーゲル先生のぼやき■

 一足の靴を作り上げるためには、その仕事を修得し練習しておかなければならないことは、誰でも認める・・・。だが、哲学することそのことだけは、こうした勉強や修得や努力は必要ないと言うのだ。 (某書より引用)