■教育基本法「改正」が変えてしまったもの■
教育基本法改正というのは、このような法の根本的な方針(「〜するな」から「〜しろ」)への転換でした。最低限の教育の目的を定め、あとは、「あり得べからざる教育」 […] を排除するという考え方から、重要な徳目を加算していく「ポジティブリスト」の発想への転換を意味する。 […] 「あり得べからざる教育」を排除する「権力拘束規範」としての性格を持っていたからこそ、改正前の教育基本法は、「空気」のような存在だったのである。 […] ところが、その性格が根本的に変わってしまう。 […] それが、教育基本法改正後の教育がさらされることになる世界である。
この点は意外に知られていないかもしれません。
■2007年当時のこの問題、今も続いてるのよ orz■
2007年頃、「指導力不足教員」の問題がよく話題に上がってましたが、それ以前に「精神性疾患により休職を余儀なくされている教員」の数のほうが問題だったわけです。文科省の調査では、「指導力不足教員人事管理システム」にのっている教員は五〇六名であり、そのうち一三一名が分限・依願退職等により教壇を去っている。このどちらの数字と比べても、精神性疾患により休職を余儀なくされている教員四一七八名という数ははるかに大きく、深刻である。
未だにこの問題、続いているんですよ。
でも、教員の数を増やそうという世論にはならないって、どこが教育立国なんすかねw
■教員には、必要な「ゆとり」がない。マジで。■
教員に余裕はありません。今後の教育改革(授業時数の増加など)で、ますます多忙化に拍車がかかれば、研修の時間はさらに減っていくだろう。教員の質が重要という割には、その質を確保するための時間を今の制度が十分に提供できているようには見えない。 […] フォーマルにも、インフォーマルにも、教員の質を高めるための時間的余裕が学校から失われているのかもしれない。
[…] 今の教員たちには校内での研修の時間がほとんどない。互いに専門職として高めあっていく時間的余裕を与えられていないのである。
ますます忙しくなって、自分の能力を磨き上げるような機会もありません。
要は人数不足・予算不足が大きな原因なんですけど、それを手当てしようと言い出す人、少ないんですよね orz
■余裕のなさが生む、教員の「ロボット化」■
教育っていうのは、ロボットとかが行うんじゃなくて、人が行うものです。どれほど整然としたきれいなカリキュラムであっても、それを実行する教員の力量次第で、教育の効果には雲泥の差が出る。 […] カリキュラムを自分のものにしていく過程を通じて、教員はそのカリキュラムに込められた教育目標を実践していくのであるし、同時に教師としての自らの力量にも磨きをかけていく。 […] 教師の外側に、教育的知識の編成があって、それを教師が外在的に使って教育を行っているのではない。 […]
この当たり前のことができなくなっている。ポジティブリストの発想でふくれあがったカリキュラムは、教師たちから、こうした時間を奪っていくからである。その結果、学習指導要領は、教科書という外在化された教育的知識の体系として形式化され、その内容に忠実に従って教えることが、あたかもカリキュラムの実行と見なされることになる。
ロボットにやらせたいなら、いっそ放送大学みたいな映像形式でやったらどうですかね(毒)
賛成はしませんけど。
■「早いうちに英語」という神話■
まあ、そういうことです。英語教育改革の議論を見ていると、どうしても「ポジティブリスト」の発想に見えてしまう。資源の投入がほとんどないまま、英語を使えたほうがいいという甘い判断で、英語教育を導入するといった姿勢である。
[…]
英語の早期教育の必修化が提唱される場合、たいていはオーラルな英語力の育成をめざしている。小さいときほど言葉を覚えるのが早いし、身につくに違いない、といった神話である。しかし、それが可能になるのは、英語漬けになるような環境においてであって、週一時間程度の授業を、英語教育の資格も持たない小学校教師がやったところで(たとえDVDなどの教材を用いたとしても)、その効果が十分でないことは明らかである。
教育を魔法の杖と勘違いしている人もいるみたいですけど、「資源の投入」をロクに考慮せずに素人の教育談義のノリでコトを進めるから、こんな惨状になるわけでw
■「教育改革」の問題は、「公務員改革」の問題そのまま orz■
学校や教師を、役所や公務員に入れ替えてみても、だいたい通じてしまう orzめざすべき教育改革のリストは長くなるばかりで、社会からの十分な理解や支援も提供されない。追加的支援も教職員の増員もなく、増え続ける改革リストのもとで、学校現場はますます「ゆとり」をなくしていく。
[…] こうなると、学校現場は、「プラスの意識」から改革に取り組むよりも、マイナスのレッテルを貼られないために改革を進めるといった、ますます受け身の姿勢になってしまう。もともと、学校現場の内発的な問題意識から始まった改革ではない上に、教師自身が改革の対象になれば、自己防衛的に改革を進める消極的な態度が広がってしまうのである。
「教育改革」に伴う一種の愚かしさは、「公務員改革」に伴う一種の愚かしさに似ています。
(2011/11/27 追記) ずっと「某書」と書いてきましたが、別に隠す必要はないので、本書の名前を明かしますと、苅谷剛彦『教育再生の迷走』です。
巷にはびこる「教育論議」なんぞより、先生の著作を読んだ方が当然有益。
流石に、全文引用だけだと気まずいので、少しだけ補足コメント書いときます。