植村邦彦『市民社会とは何か』という良本がある。
マトモな書評は他にもある(そうでないものもあったw)ので、詳細は、そっちを参照された方がいい。
今回は、その一部について。
第八章の中でこういうくだりがある。
曰く、
マイケル・ウォルツァーも、ユルゲン・ハーバーマスも、東欧革命における市民団体の役割から、「市民社会」の再定義を試みている。
んで、国家権力に対して相対的に独立した領域として、「市民社会」を考えている。
でもでも、東欧「社会主義」諸国において、政府は経済の領域においても、国営企業の雇用主として、労働者に対立していたはずである。
ポーランドの「連帯」(労働組合だぜw)を見れば分かるように、政府への異議申し立てとは、労働条件をめぐる階級闘争でもあった。
でもさ、ウォルツァーも、ハーバーマスも、経済の領分(企業と市場)をハブって、政治の領分(政治的公共圏)における政府への異議申し立ての担い手としてだけ、「市民社会=市民団体」を位置づけているんじゃね?
著者の言わんとするところは、以上の通りだ。
「個々の国民が政治的世界の天国にあっては平等で、社会の地上的生活にあっては不平等になるようにしたのは、歴史の一進歩」と喝破したマルクスが聞いたら、どんな顔をするだろうか。
「市民団体」云々の話をするとき、そこでは、労働組合はハブられている。
「市民社会」云々の話をするとき、そこでは、「社会の地上的生活」における「不平等」の話は、ハブられてしまう。
別に無視されているわけじゃない。
でも、「市民社会=市民団体」の話になった途端、見えなくなってしまうのだ。
この問題については、またいつか考えることとしよう。
(恐らく続く)