住居が「権利」ではなく、経済の「燃料」にされてきた戦後日本の歳月 -平山洋介『東京の果てに』を読む-

 平山洋介『東京の果てに』を読む。
 良書。
 内容については、こちらの書評をお勧めしたい。

 なかでも、"福祉としての住宅"という問題に関して興味深い箇所があるので、これについて書いておく。
 (著者は、のちに『住宅政策のどこが問題か』という本を書いており、これは必読されるべき。)



 地方分権が叫ばれる昨今だが、住宅政策の場合、その結果何が生まれたか。

 分権の結果、地域間の競争関係が生起する。
 そして、そうした各地域政府が求めるのは、中間層であり、彼ら向けの住宅市場を拡張しようとする。
 これにより、税の増収と消費力(購買力)を得ようとするわけだ。

 一方、低所得者向けの住宅政策の場合、逆に税収に寄与せず、福祉関係の支出を増大させるものと見なされる。
 結果、彼ら向けの公営住宅の建築は、縮小させられてしまう。

 住宅政策の分権化は、他の福祉政策に見られるのと同様、低所得者向けの施策をいっそう減退させる(226頁)。
 分権化とは、原則的には福祉の敵であり、それは住宅政策においても例外じゃない。



 もっとも日本の場合、住宅政策は歴史的に、経済に活力を与えるエンジンとしての役割を担わされ、持ち家を推進する方向へ舵が切られる一方、福祉としての公営住宅等の役割はおろそかにされてきた。

 乏しい財源しか与えられない公営住宅に対する政策は、結果、その対象を絞ることとなる。
 それが、入居世帯のカテゴリー化の促進を生んだ。

 すなわち、公営住宅の対象を、低所得者全体にではなく、その中の「カテゴリー」に当てはまる世帯に絞ることである(231頁)。
 カテゴリーとは、「高齢者」、「障害者」、「母子家庭」、「災害被害者」、「ホームレス」などの"表徴"を指す。

 上記の諸カテゴリーに当てはまらない世帯は、逆に、どんなに住宅に困窮していても救済されない(233頁)。
 カテゴリー各々は一応問題視される一方で、それらから外れた住宅困窮は、見えないものとされていった。

 (あまり関係のないことだが、何一つスティグマがないゆえに、却って外へ出られなくなってしまった「引きこもり」の存在を思い出した。)
 



 政策文書なんかには、「真の住宅困窮者」という言葉が出てくる(235頁)。
 要は、「真の住宅困窮者」じゃない「真じゃない住宅困窮者」をハブろうとしているわけだ(まるで、「本当に貧しい人」とか「本当に真面目に頑張っている公務員」みたいな論法じゃないのw)。

 この場合は、低所得者に対する住宅施策の不足を前提にして、比較的困窮していないと見なした世帯から順にハブっていく(比較的資産がある、だとか、収入が比較的ある、だとか)。
 低所得者に対する住宅施策の不足は、動かぬ前提とされてしまい、これを変える動きは殆どなかった。
 こうした「住宅困窮の量が住宅対策の供給量を決めるのではなく、対策規模の制限が困窮度の競争関係を形成」するという実に本末転倒な事態
が、日本ではまだ続いている(235頁)。



 著者が考える対策は何か。
 それは、民間借家に対する家賃補助である(237頁)。
 公営住宅に入居できない世帯にも公的援助が届く。

 実際、過去に社会資本整備審議会が、家賃補助導入の必要性を示唆したこともあった。
 しかし、結局、「技術上の課題」を理由に退けられたようだ。
 背景にあるのは、戦後日本の「住宅供給と経済開発を密接に関連づけ」る政策であり、建築投資に結びつかない施策への忌避がある。

 住居を、「社会保障」の面よりも、経済的な「財」の面ばかりで捉えてきた後遺症は、まだまだ行政の深部に残存しているらしい。