安全保障論の根本、それは「不安」である、という話なんでしょうな。 - 土山実男『安全保障の国際政治学 焦りと傲り』を読む

 土山実男『安全保障の国際政治学―焦りと傲り』を読む。
 安全保障論の良本である。
 amazonの書評が丁寧なので、ぜひ目を通しておくこと。

 最低限、「第1章 はじめにツキュディデスありき―国際政治の焦りと傲り」は読んでおくこと。
 古代ギリシア時代の古典もバカに出来ないことがわかる(当たり前だw)。
 近代の安全保障論より、よほどツキュディデスの方が冴えていた。
 (本書では、「ペロポネソス戦争の叙述を通じてその根本的な戦争原因をアテネとスパルタの勢力不均衡にあると論じ、戦争の脅威は個人の心理状態ではなく外部的な勢力状態に因ると強調した」という風に要約されてしまう従来のツキュディデス解釈を批判し、その解釈が一面的であることを論じている。)
 その辺は、よそのブログさんのこちらの記事でも紹介されているので、是非ご一読ください。

 気になったところだけ。



 本書のカギ概念について(89頁)。

 「セキュリティ・ディレンマ」、あるいは「安全保障のジレンマ」という用語。
 つまり、互いの勢力が、自分たちの安全を図るために競うように軍備を増強して有事に備え、結果、ますます戦争への道が近づいてしまうようなジレンマのことだ。
 amazon書評だと、「例えば、自国が強大になれば自国は安全が増すが、その分他国の不安は増し、結果どんどん軍備を増強しどんどん不安になっていく」と、より丁寧に解説している。
 国際関係論とかでは有名な概念ですな。
 ・・・ちなみに、たとえ対諸外国向けの軍備が撤廃されても、国内の治安維持のための武力は維持されるだろうから、結局セキュリティ・ディレンマは引き起こされる可能性がなくならない、と本書に書いてある。(減りはするが。)

 一方、安全を強化したり、力を拡大したりしているのに、安心が得られない、これを「セキュリティ・パラドックス」と著者は呼ぶ。
 amazonの書評では、「せっかく力や領土を得ても、それを奪い返されるのではという恐怖から安心できなくなる」と、より丁寧に要約している。
 これは著者オリジナルの概念っぽいが、似た概念は他にもあるはず。
 某アメリカ合衆国が、そのパラドックスに嵌りまくってますな。



 著者は、プロスペクト理論を、国際関係論に応用する(197頁)。
 
 例えば。
 抑止される側が、その弱さを相殺しようとして、一種のパニック状況の中で、思い込みや希望的観測に基づいて「抑止理論のいう利害得失から出てくるはずの選択とは逆の選択」をとり、その結果、抑止が失敗したケースというのが結構あるわけだ。
 ・・・要するに、劣勢な側が、希望的観測に基づいて、「優勢な側にとっては不合理としか思えない選択」を執ってしまう、ということだ。
 太平洋戦争のときの日本とか考えてくれればいいと思います。
 どう考えても劣勢な側が「まさかこいつらが戦争なんて起こすはずがないだろ」って状況で、何と戦争を起こしてしまうような状況である。

 実際には、それまでに獲得したものを失わないためには、戦争にさえ打って出ることがありうる。
 プロスペクト理論に、人は得る利益より、失う損失の方を重く見てしまう傾向がある、ってのがあるけど、それがまさに太平洋戦争開戦前の交渉にも当てはまる。
 日本がこれまで得てきた植民地や勢力圏、そういったものを失うくらいなら・・・という判断である。

 また当時、永野修身が、後になると足腰が立たないが今なら勝てる、と述べたように、時間は日本に不利に作用していた。
 そして、今がチャンスだ、という考えで勝算を過大に見積もってしまい、開戦に踏み切ったのだった(282頁)。
 (太平洋戦争開戦の件については、永井陽之助も1980年代に『現代と戦略』で既に書いていて、?今開戦しなければ日本劣勢は確定、?今すぐ開戦すれば勝てるチャンスが少しある、という状況下で、日本側は、確実な損失を恐れ、不確実なチャンスに賭ける行動を取ったが、まさに、これはプロスペクト理論がそのまま当てはまる事例である。)
 
 こういった場合、抑止を成功させるには、能力の強さや公約の存在を「示威」するだけでは不十分であり、むしろ抑止する側が、相手の安全をも気遣う必要が生じる。
 これは後述する。



 キューバ危機について(vii頁)。

 あまり知られていないが、米国はミサイル・ギャップ論争などを受けて、1961年11月〜翌年3月にかけてトルコに15基のジュピターミサイル(数分でモスクワが叩かれる代物)を配備している。
 それに恐怖を抱き、ソ連キューバへMRBM(準中距離弾道ミサイル)42基を含むミサイル(数分でワシントンが叩かれる代物)を配備。
 そいつに、今度は米国が恐怖。

 お互いに、相手が攻勢に出ている、と考え、結果として、相互不安に陥り、危機を招いた。
 まさに、安全保障のジレンマの典型例だったりする。

 もともと、トルコへのミサイル配備は、アイゼンハワー時代にも検討されていた。
 しかし、ソ連の反応を懸念していたため、配備を見送っていた(271頁)。

 しかし、ウィーンでの米ソ首脳会談で、フルシチョフに押し切られたと感じたケネディは、「もしトルコへのミサイル配備をキャンセルすれば、欧州からの信頼性が低くなり、ソ連に弱腰であるとの印象を与えかねない」と判断、そして、ミサイル配備を決定する(272頁)。

 ケネディは自分が弱いと見られることを、嫌った。
 意識としては常に受身だった。
 双方が被害者意識を持って、防御的立場から相手の攻勢を非難するという構図が出来上がった。

 (ちなみにキューバ危機は、アメリカ側が毅然とした強気の姿勢に出て、結果ソ連側が妥協したようにも見えるが、実際には、「トルコに配備されたアメリカのジュピター・ミサイルを撤去するという内容の秘密合意をケネディ大統領と結ぶことができた」ゆえにミサイルを撤去したのであり、譲歩もまた、当然大事なのである。詳細、こちらの記事参照。)



 敵になめられないためには、敵に好きに乗じられないようにするためには、抑止政策が必要だが、脆弱性によって起こる戦争だとか、安全を失わないために自棄を起こしている勢力には、抑止だけでなく、相手の安全をも気遣う「保証」政策が有効である(205頁)。

 もちろん、今の状況がどれであるのかを正確にその時点で見極めることは容易でなく、程度問題になる。
 たいていの場合、後者を心がけた方がいい気がしますが、ええ。



 安全保障論の根本、それは「不安」である、という話なんでしょう、多分。
 一度得てしまった者は、失うのが怖いのです。
 自分も相手も。



 この記事の内容が、殆ど別のブログさんの記事で丁寧に解説されているので、是非そっちをお読みください。

(未完)



(追記) 2012年9月30日、一部訂正及び追加済。