最上敏樹『人道的介入 正義の武力行使はあるか』を読む。
まったく古びていない。
それくらい、すぐれた書物ということなのか。
はたまた、世の中が進歩もせずに停滞しているだけなのか。
「人道的介入」を含め、あらゆる国内外における「武力行使」を考える上で、そして、あらゆる「介入」を考えるうえで、読んでおくべき書物。
著者の意見に対し、左右どちらからも批判的な意見はあるだろうが(実際、評者にもある)、読んでおくべき書物であることに、かわりはない。
既にいくつも書評はあるが、気に入ったところだけ書いていく。
書評(というか抜粋)としてはこちらがおすすめ。
みもふたもない話。
現実の人道的介入というのは、相手が強大国である場合まず行われない(45、6頁)。
チェチェンにとってのロシア、パレスチナにとってのイスラエルとアメリカ、チベットにとっての中国、などである。
だが、人道的介入とは、ルールに基づくものであり、法的正当化を行わねばならない以上、類似する事例においては、いつでも武力行使をしなければならなくなる。
チェチェンでも、イスラエルでも、そうしなければならない。
問題は、恒常的かつ一貫した事案処理をしなければならないことであり(138頁)、にもかかわらず、それが現在もなお行われていないことだ。
「介入」の正当性・一貫性に関わる問題、これを念頭にして、「人道的介入」を考えねばならない。
そもそも、なぜこんなに悪化するまで放置していたのか、という話(179頁)。
例えば、ベオグラードを空爆した国々は、以前はミロシェヴィッチ政権と積極的に関係を結んでいた。
また、彼のコソヴォでの人権侵害を黙認していた。
イラクを攻撃した国は、湾岸戦争以前まで、フセイン政権を支援し彼の人権侵害を容認していた。
東ティモールにしても、介入を主張した米英両国はインドネシア政府への主要な武器供給国であった。
そして、介入を先導したオーストラリアは、インドネシアによる東ティモールの不法占領を承認した数少ない国だった。
無責任な行動で事態を悪化させた当の国が武力行使をするのは、安易に認められない、と著者は言う。
「安易に」という点が重要である。
過去の「清算」と「記憶」が、当該国に求められる。
そうした「禊」もせずに、正義面することは、「正義」に反するだろう。
意外と忘れられがちだが、実に重要である。
なぜ虐殺が起こる前に本格的に介入しようという議論が起こらないのか、という問題(182、183頁)。
あまりにも遅すぎるし、そうした出遅れによって、必要とされる武力は増大してしまう。
事態が悪化したらすぐに(攻撃や殲滅のためでなく、住民の防衛のために)、国連平和維持軍を派遣するという方法は十分可能なはずである、と著者は言う。
平和維持軍は存在するだけで残虐行為がかなり予防できることが、ルワンダの事例でから言えるし、早期に展開すれば、暴発の予防に効果を発揮することは、一時期までのマケドニアの事例で言える、と。
著者は、人道的介入における、早期発見・早期治療(早期防衛)の重要性について述べている。
空爆などよりも、はるかに、まっとうな道ではある。
(空爆は住民を直接的に守ってくれるわけではないし、空爆をしても住民虐殺が止むどころか 増えたケースもある。)
むろん、それは武力のみではない。
まず必要とされる「危険負担」とは危険な場所への人道的救援であり、迫害される人々に住まいを確保し、食糧と医薬品を届けることである(203頁)。
そうした危険な活動をいとわないことが、日本国の「平和貢献」に最も求められている、と著者は言う。
その危険な活動を護衛する危険性はその次の段階であり、その危険を生み出している張本人たちに最悪、攻撃を加える危険は、さらに次の段階である。
「人道的介入」は、単に、武力介入のみではない(今でも勘違いされやすいことだが)。
極限状態での武力介入が「大文字の人道」なら、それ以外の介入は緊急の人道的救援から日常的な援助も含め、「小文字の人道」である(209頁)。
大文字のそれが極限状況で稀にのみ行われうるものであるのに対して、小文字のそれはいつも必要である。
もちろん、どちらも重要な事柄である。
ただ、「人道的介入」の議論が行われるときに、安易に空爆などの「武力」ばかりがクローズアップされるが、それだけではない、ということだ。
何事も、踏まえておくべき「手続き」・「ルール」というものがある。
本当は、大阪の体罰事件における市長の教育行政への「介入」の問題とか、アルジェリアにおける諸国の「介入」の問題とか、色々書こうと思ったけど、まとまらないので、またの機会としたい。
(未完)