赤澤史朗『靖国神社』を再読する。
(たぶん)知られざる良書である。
いつもどおり、興味のあるところだけ取り上げていく。
「靖国神社の祭礼には、競馬やサーカスなどの娯楽が付きまとい、多くの観衆が集まった」というふうに、庶民にとって靖国神社が親しい存在だったことを説明する研究がある(20頁)。
だが、戦前の靖国神社は、神社が強力な軍の管理下に置かれていたし、また例大祭などの祭典に正式に参列できるのは、軍や国家の代表者だけであって、庶民はもとより、遺族すらも参列できなかった。
戦前期には、祭礼の合祀に際して、遺族は合祀祭への参加を許されず、かろうじて招魂斎庭から、本殿に向かう御羽車を拝んで見送ること、祭典終了後の昇殿参拝が認められただけであった。
戦前における靖国神社の遺族に対する位置づけは、実はこのようなものである。
遺族会として勢力が強くなるのは、戦後のことである。
ところで、上記の「庶民にとって親しい存在だったことを説明する研究」とはだれが書いたものだか分かるだろうか?w
「靖国」と名前の付くだいたいの書籍に目を通していれば、それはすぐに分かる。
戦前にも靖国批判は存在していた(23頁)。
例えば、臨済宗の僧侶・
靖国神社の祭神は軍事的侵略にも関係する「国家的色彩ある祭神」であり、ここには、世界性も普遍性もない。
「神」というのは世界的・普遍的な価値の体現者でなければならぬはず、と。
この批判からは、大正期の普遍性志向が、うかがえる。
いやあ、靖国の傾向って、今も変わってませんなw
かつて、1951年には、靖国境内で「総評等加盟の日本平和国民会議が赤旗を立て労働歌を歌い平和大会」を開いている。一万人集まったらしい(88頁)。
今から考えると信じられないかもしれないが、当時はそういう時代だった。
たしかに靖国側は、サンフランシスコ講和条約の締結に賛成していた。
それでも、当時の靖国関係者は平和を唱えていた(89頁) 。
そのことは、当時の関係者の発行した資料から分かる。
戦後初期の靖国神社の平和主義への転向は、十分に自覚的に行われたものではなかった(71頁)。
そのことが、後の靖国神社と遺族会のなしくずしの再転向を招くこととなる、と著者はいう。
実際その通りであろう。
つまるところ、戦後のある時期まで靖国側は「平和主義」と何とか折り合いをつけようと努力していたが、しかし、神社に内在する国家志向・旧帝国志向との齟齬が1960年ごろからしだいに大きくなり、遂に後者のベクトルが専らとなった、という話である。
もともと、国立戦没者墓苑の構想は、戦後初期の時、マッカーサーが靖国神社とは別に非宗教的な「無名戦士の墓」を建設すべき、という「勧告」をしたことに発するという(110頁)。
これは、村上義一「墓苑の趣旨」(1967年)が出典。
あんまり信じられないが、一応書いておく。
もし戦後の日本の国家が、戦後補償の範囲を広げ、靖国の合祀対象もそれと一致し、金銭補償と合祀が合体して、国内の民間人犠牲者や旧植民地人にまで及んでいたら。
もしそうだったとしたら、靖国は総力戦段階に相応しい国家主義的な追悼施設に変貌して、現在以上に政教分離上の厄介な問題を引き起こしていたかもしれない(255頁)。
しかし、彼らは、民間人犠牲者を補償と合祀対象から除外し、旧植民地人犠牲者を補償の対象から外した。
このことは、それらの人々を反戦平和主義の方向へ向かわせることとなったのである。
靖国神社への合祀というのは、戦前から「『国』に殉じた者」という基準にもとづいていたが、この神社の根幹を、変える事はついに出来なかった。
よーするに、日本国と靖国神社は「オウンゴール」しちゃったのである。
(未完)
(未完なのに追記)
ブコメに対して一応の返答めいたものを書いておきます。
「左右どちらも全体主義的傾向が強かった」云々という論点についてはおいておいて、「結局国家理念とは何かという、一番の劇薬の問をのみこまなかったツケ」という点については、ドイツでの事例と比較して論じられるべきでしょう。lotus3000 結局国家理念とは何かという、一番の劇薬の問をのみこまなかったツケなんだろう。しかも左右どちらも全体主義的傾向が強かったし。
これが歴史的に事実であるか否かについてはあえて避けて通りますが、戦前の「国家神道」と靖国神社の存在に対して、あの葦津珍彦がどう関わったのか、という論点については避けては通れません。前者はめんどくさいのでググっていただくとして、後者についてはこれを御参照あれ。wkatu 神道は仏・儒・キリスト教に加え国家主義とも習合したが、民主主義とだけは習合しなかったという話を思い浮かべた。