「ジョブ型正社員」は、先ず隗より始めよ、みたいな話。  -濱口桂一郎『若者と労働』に対する感想-

 濱口桂一郎『若者と労働』を読んだ。
 著者の本(ただし全部新書!)を扱うのは、三冊目となる。

 本書は、
 日本のメンバーシップ型雇用の歴史的成り立ちと、現在抱えている問題点とを、
 「入社」というまさにメンバーシップ型雇用社会に特徴的な事柄を糸口にして平易に解説し、
 (この平易さは、著者も新書三冊目となって説明がこなれてきたのと、担当編集者の力量とによるものだろう)
 一方、日本以外の社会で通常行われているジョブ型雇用も対比としてその実態を詳しく説明し、
 最後に、現在生じている日本の雇用の問題点に対する「処方箋」として、
 ジョブ型正社員という正規でも非正規でもない第三の雇用形態を提唱する、
 という内容である (たぶん)。
 
 ラクレには、『日本人はどのように仕事をしてきたか』という中身の詰まった本もあるが、これについては以前、感想めいたものを書いた。

 気になった所だけ(長い)。



 第一次世界大戦後の大規模な労働争議を経て、日本の大企業は渡り職工を切り捨て、企業内で養成した子飼いの養成工を中心とする労務管理制度を形成する(62頁)。
 この時期になって、それまでまちまちだった養成工の採用年齢や採用時期が、統一されてくる。

 新卒定期採用制は、このころから形作られ始める。
 学校を卒業したばかりの若者に企業負担で教育訓練をし、彼らを企業内で職長等にまで昇進させる仕組みの出発点だった。

 一方、ノンエリートの一般職工は、原則として期間を定めた臨時工として必要に応じて採用され、一定期間勤務すれば、その一部が本工として登用された。
 だが、大半は臨時工として景気変動に対応して雇止めされ、本工たちの雇用のバッファとして機能した。
 
 以上は大企業のお話しである。
 中小企業は、渡り職工的世界がまだ濃厚に残っていた。

 この濃厚な格差(いってしまえば「分断的統治」)は、労働運動に対する対策の結果によるものである。
 (中国でも「分断的統治」に似ている現象はあり、この「臨時工」問題については、梶谷懐先生の記事を参照のこと。)

 戦後もメンバーシップに基づく本工の内部労働市場とジョブに基づく臨時工の外部労働市場という二重構造が再び出現している(65頁)。
 臨時工が大規模に本工に登用されるのは、高度成長が始まり、急速に労働力不足になってからのことである。

 こうした戦後日本における雇用形態の成り立ちは、景気(を原因とする人手不足)などの循環的問題にも、影響されている。
 忘れられがち(?)なので、一応書いておこう。



 1950〜1960年代には、経営側と政府が同一労働同一賃金に基づく職務給を主張し、労働組合はそれに対して極めて消極的だった(88頁)。
 だが、1969年に、日経連が年功制を高く評価して、その構図は転換する。

 さらに、1960年代には職種と職業能力に基づく近代的な外部労働市場の確立を目指していた政府の労働政策も、1973年の石油危機を契機に、企業内部での雇用維持を最優先させる方向に大転換する(117頁)。
 大量失業を引き起こさないために、遂に政府側も、労働市場にあった現実を追認することになったのである。
 ここでも景気が重要な要素となっている。
 
 なぜ、当時の労働組合は職務給に否定的だったのか。
 詳細は、著者のブログの記事のこれを読まれたし。

  簡単にまとめると、「戦後の労働組合は戦前の労働組合運動よりも、工場委員会から産業報国会へと連なる企業内従業員組織の系譜を引いて」おり、「共産主義に傾いたメンバーシップ型急進主義が主流」ことが要因としてある。
 「当時は、少数の経営幹部を除き、課長クラスの職員までみな組合員になっていたので、組合側に経営実務のノウハウがあり」、「労働組合の争議手段として、労働組合が経営者に代わって自主的に生産活動を行う生産管理闘争が広く行われた」と、戦争(戦時体制)を引きずっている。

 たしかにこうした状況を経れば、職務給よりも、その後完成する職能給の方が、親和的になるだろうとは思う。

 



 実は、日本の労働省は戦後ずっと、ジョブ型の政策をやっていた(57頁)。
 1948年からアメリカ労働省方式に基づき、職務分析を開始し、その成果を職務解説書として職種ごとに取りまとめた。
 それが173冊に及び、『職業辞典』が作成された。

 ジョブ型の場合、何よりまず、職種単位でのその職業能力に着目した求人と求職者との結合の適格さを念頭に置かざる得ない。
 そのため、このような辞典が発刊された。
 ジョブ型の場合、「人間力」なる抽象的な概念で能力を問うのではなく、必要な能力を具体的かつ厳密に問う。

 職業分析の成果は、その後どうなったか。
 「時代は既に後述のメンバーシップ型労働政策の時代に入っていたが、その間『職業ハンドブック』を何回も刊行、改定するなどが行われた。やがて時代の流れが再び変化し、外部労働市場志向の政策が復活してきた2006年には、ネット上にキャリアマトリックスという職業解説サイトを開設し、多くの人々の利用に供してきた」(出典はここ)。
 その後、後者は事業仕分けで廃止されている。



 厳密に能力を問うのは、学校も同じ。

 欧米社会では、具体的にどの学部でどういう勉強をしてどういう知識や技能を身に付けたかを、厳格な基準で付与される卒業証書を判断材料として判定される(128頁)。
 恐ろしく具体的(日本の基準だと)。
 本当なら、日本もこれくらいやるべきなのだろうが、メンバーシップ型である日本の雇用社会では難しい。

 以前、charis先生が、濱口桂一郎『新しい労働社会』に関して、「日本の大学には実に多様な学部」があり、「文学部は全体のたった5.9%を占めるだけ」であって、「工学部、医学部、歯学部、薬学部、看護学部教育学部家政学部、芸術学部などがあるが、これらの学部は、法学・経済学部に比べると、はるかに卒業後の職業に直結していないだろうか?」と問題提起したことがあったが、上記の欧米社会との違いが考慮されるべきだろう。

 まあ、そもそも、企業側の人材への需要と大学側の人材の供給との間にミスマッチがあるのを防ぐために、大学の学部定員に対してマンパワー政策(つまり、企業側の需要にあわせて、学部側の定員を増減させること)がなされるべきだと思うのだが、さて、どうだろうか。
 (このマンパワー政策については、矢野眞和『「習慣病」になったニッポンの大学』の最後辺りで触れられていた、ような気がする。)



 というか、そもそも職業教育への比重自体が、違う。
 その最たるものとしてドイツの事例が、本書において挙げられている。

 ドイツのデュアルシステムの場合、座学と実習の両方とも重い、たいへん本格的な組み合わせである。
 ドイツの場合、今では高等教育機関の半分以上は、アカデミックな大学ではなく、デュアルシステムで勉強しながら技能を身につける専門大学だ(176頁)。

 特徴的なのは、デュアルシステムで実習している生徒や学生は、卒業したら、その実習している企業に就職するとは限らないという点である(175頁)。
 このシステムの主体は地域の業界団体であり、会員企業が業界全体の労働者育成のために若者を見習として受け入れている。
 「これはやはり、ギルド的な業界のつながり」があってのことだろう、と著者は言う。

 では、ギルド的なつながりのない日本の場合、どのようにすればいいのか。
 (ただ、金子良事先生は、「別に日本にもギルド的組織がなかったわけではなく、明治期に壊したんだよね。最後まで残ったのが鉱山の友子同盟だと思います」、と述べている。)



 年功賃金制は英語でセニョリティ・ベースト・ウェイジという。
 年功をベースとした賃金、という意味である。

 欧米ではセニョリティを、解雇されない順番に用い、日本ではそれを職務と切り離された賃金の決定に用いる(107頁)。
 ここに重大な違いが生まれる。

 日本では、中高年労働者の賃金がセニョリティに基づいてその仕事に比べて高くなっているので、実際にリストラが行われるときには、中高年労働者から退職勧奨がされるのである。
 ジョブ型の欧米の場合、リストラは若者からなされるのとは対照的である(特に欧州の若年層の失業率を見よ。)。
 年齢で大きく賃金が変わらないなら経験豊富な奴を雇う、じゃあ経験が浅い(あるいは、無いやつ)は、当然雇われにくい。

 ジョブ型雇用社会とは、ジョブを厳格に問うゆえに、弱年齢者・職業経験の浅い者にはきつい社会である。
 その対策として、職業訓練、職業教育が重視される。

 もっとも、セニョリティは基本的に在職している年数によるので、一度会社が倒産したら再就職したら在職年数は一からやり直しである(ような気がする)し、また、衰退産業に在職していた中高年の場合、やり直しが相当厳しいと思うのだが。
 北欧諸国のような、アクティベーション政策をやっている国の場合には、また違うのだろうか。
 (中高年が他の産業・業界に移る場合の実態などが、知りたい。)



 1987年と比べ、20年後の2007年は非正規雇用が大幅に増えている。
 ただし、増えたのは、臨時型の非正規雇用ではなく、常用型の非正規雇用である(246頁)。

 つまり、常用型であるにもかかわらず、雇用側が就労コスト等を理由に、非正規にとどめられている者が大半、というわけである。

 延々と非正規にとどめられるくらいなら、中間の雇用形態としてジョブ型正社員 (いうまでもなくジョブ型正社員は無期雇用)がありうる、というのは一応もっともなことである。
 ジョブ型正社員とは、職務や勤務地、労働時間などが限定される代わりに、その職務(ジョブ)がなくなった場合には、整理解雇ができるポジションのこと。

 「正規社員」と聞こえはいいが、「ワークライフ"イン"バランス社員」とも言えるのである。



 ジョブ型正社員の場合、リストラ時に残業削減の余地は無い。
 そのため、そうした場合には、直ちに整理解雇となる。
 ただし、労働時間を減らして賃金を分け合うワークシェアリングはあり得る(262頁)。
 (ただし、このワークシェアリングがめんどくさい問題であることについては、著者のブログ記事のこれを参照。)

 また、彼らは賃金は時間単位で計算される。
 (この点はやはり、ジョブ型に近い)

 彼らは職務給だが、若年期には、勤続による習熟に対応した一定の年功的昇級がなされる。(35歳くらいまでだろうか。)
 ただし、その教育訓練も、その職務系列の上位に昇進するためのものに留まる。
 つまり、社長へ至る幹部クラスにはなれない(≒ならなくてもいいw)ということ。

 こういう道が、確かに、あっていいはずである。



 ところで、整理解雇しやすくなったということは、ジョブ型正社員の場合、再就職中の対策はどうするのだろうか。
 (もちろん、整理解雇を口実にした首切りにも、監視の目が必要である。)

 また、仮に時間単位で給与を計算する場合、これまでメンバーシップ型正社員に与えられてきた、企業による「福祉」はどうするのだろうか。
 メンバーシップ型雇用の場合、中高年になってから益々必要になる住宅や養育・教育の費用を、国ではなく企業が引き受けてきたわけだが、それならジョブ型正社員の場合はどうなるのか。
 企業側が継続して引き受けるのか、それとも国が社会福祉で何とかするのか、それとも放置プレーを決め込むのか。

 ただ、樋口美雄先生の言う通り、つまるところ、「転職したいと思えるような職種や賃金などの労働条件がよい魅力的な産業を生み出せるかが課題」であり、「ニーズにあった人材を育成できるよう職業訓練の充実も問われている」。
 はたして、どうなることやら。

 とりあえず、山下ゆ氏が述べているように、「国や地方公共団体等の公的セクターが、この無期への転換を積極的に進め、年功賃金ではない「ジョブ型公務員」を生み出して行かないと、この改革はうまくいかない」だろうし、「厚生労働省ハローワークの職員の雇用などで率先してこうしたことをやれ」という話になる。
 そういえば、清家篤先生は賃上げ対策について「政府ができるいちばん手っ取り早い策は公務員の給料を上げるということ」と言ってたと思うが、上掲のような対策も、是非「隗より始めよ」でお願いしたい。

 (未完)