満洲の棄民、あるいは、裏切られた「戦場の花嫁」について -東志津『「中国残留婦人」を知っていますか』を読んで-

 東志津『「中国残留婦人」を知っていますか』を読む。

 ジュニア新書と思って侮るなかれ。
 良書である。

 ほかにも読まれるべき個所をいくつも含んでいるのだが、ここでは、数か所のみ引用とコメントをする。
 (要するに実際に本を手に取ってくれということだ。)
 


「開拓移民が渡った先で与えられた土地の多くは、もともとは中国人のものでした。彼らが苦労して開墾した農地に日本人が入植したのです。土地や家屋を奪われた中国人は、その後、小作や苦力(日雇い労働者)として日本人のもとで働くことになりました」 (6頁)

 これは著者による解説である。
 ここでいう中国人とは、満州人を含む中国人を指している。
 まず基本的なことだが、満州国とは、このような土地の収奪によって成立している。


 結婚を前提に募集をおこなえば、応募者が見込めないと考えた為政者たちは、本当の目的を伏せて人を集めていました。そうした事業に応じて満州に送られた女性たちは、まず、「女子義勇隊訓練所」と呼ばれる施設で開拓移民教育を受けることになっていました。 (27頁)

 これが、「大陸の花嫁」の実相である。
 たいていの女性たちは、その内容を、つまり、結婚が目的であることを知らされていなかった。
 この本に出てくる栗原貞子さんも、その一人だった。*1


 広大で豊饒な土地では、誰もが豊かに暮らしている、それが栗原さんの思い描いていた満州でした。(略)しかし、今、目の前にある光景は、それとはかけ離れたものでした。あまりの落差に、栗原さんの満州への憧れは、またたくまにしぼんでいってしまいました。 (38頁)

 栗原さんいわく、「ああ、これは失敗したなぁ」

 夢を見させて人を「移住」させるのは、北朝鮮帰国事業を思わせるものがある。
 (北朝鮮帰国事業については、菊池嘉晃の中公新書などが参照されるべきだろう。)


 うちの事情が事情だから私、帰るんだ! って言うと、『ああ、帰るんだったら憲兵隊に連れて帰ってもらいますから』って、こう言われる (44頁)

 栗原さんの証言。
 結婚を訓練所の所長から迫られた時の一幕である。
 「憲兵隊に連れて帰ってもらいます」とは、つまり、「国家に背いた非国民のレッテルをはられるのと同じことでした」(同頁)。
 数か月で帰国できると聞かされていたのに、そこに定住して結婚を強制された栗原さん。
 その強制の仕方が、上記のものである。
 彼女はやむなく結婚を受け入れる。

 目的を伏せて人を連れてくる、そして、そこに定住を強制し、結婚も強制する。
 これは、拉致の一種である。
 (拉致についてはこの記事も参照されるべきだろう。)


 農家での下働きや粗末な食事の辛さに加えて、当時、栗原さんを苦しめていたのはシラミでした。避難以来、お風呂に入ることのできなかった栗原さんは、身体中がシラミだらけになっていました。 (略) 栗原さんは、避難する時、お腹に、小さな日の丸の旗をお守り代わりに巻いていました。(略)ところが、何カ月と経つうちにその日の丸の赤い部分がシラミの卵で真っ白になってしまったそうです。栗原さんは情けなくて涙が出たといいます。 (95頁)

 結婚後、敗戦。
 関東軍に置き去りにされて必死で逃げた栗原さん。
 一緒に逃げた仲間たちは、置き去りにされたり、自分の嬰児を殺したり、絶望して心中したりした。
 弱い立場の者、子供や老人から、次々に死ぬ。

 捕まってソ連軍の兵舎での環境の酷さに耐えかねた栗原さん。
 今度は脱走し、脱出先では中国人農家で下働きをして、何とか生き延びていた。

 上記は、そのときの栗原さんの描写である。

 「軍隊は国民を守らない」という歴史的実例の一つを、関東軍が作り上げたわけである。
 愛国教育を受けて志願して(だが騙されて)満州に渡った愛国少女、それが栗原さんだった。
 その国から受けた仕打ちが、白くなった「日の丸」である。


 手の中にいる赤ん坊は、これまで自分たちをさんざん痛めつけてきた敵国の血を引く子どもです。ところが長勝さんは、そんなことをおくびにもださず、ひたすら赤ん坊の命を守ろうとしてくれるのでした。 (103頁)

 

(注:長勝さんいわく)「戦争は、上(国家の責任者)の人間たちがやったこと。置き去りにされた日本人は、我々中国人と同じ被害者だ。その生き残りの命を粗末にすることはできなかった」 (104頁)

 その後、中国人農家の男性(長勝さんという。)と再婚した栗原さん。
 その時の話である。

 栗原さんは結婚した日本人男性との間に子供がいて、妊娠している状態で脱走をしていた。
 逃げた先で、出産をした。
 栗原さんに日本人の血を引く子供がいるのを承知で、結婚をし、その子を育てたのが長勝さんである。
 これがどれほどのことであったか。

 ここでは引用をしないが、文革期に残留日本人が差別を受けたことも、この本では取り上げられている。
 これが、戦後中国において、一番つらい時期だったと語る残留日本人は多いという。


 栗原さんに限らず、身元引受人になることを肉親から拒否された人は少なくなかったといいます。 (略) 日本政府は『帰国に関しては個人の問題』として、中国残留日本人の帰国問題を、国家の責任として捉えず、積極的に取り組もうとはしませんでした。 (150、151頁)

 

 政府が、これを国家の責務と認め、補償や帰国後の生活支援などの対策を講ずるようになるのは、日中国交正常化から二〇年以上も経ってからのことです。 (同頁)

 国交回復後、何とか日本へ戻ろうとする栗原さんだったが、政府は冷たかった。
 著者いわく、「政府の対応は遅すぎました」(161頁)。
 これが愛国心を奮って行動した人間に対する仕打ちである。


 役所で応対した人は、身元引受人がなく、国に認められていない栗原さんたちのことを、「中国の乞食」とまで言い放ったそうです。(略)「その時、日本という国がどういう国なのか、よくわかりましたよ」 (155頁)

 家族で帰国するために、栗原さんたちが自費で「渡日」した後、支援してくれた人物がいた。
 それが千野さんである。
 彼は、満蒙開拓青少年義勇軍の一員で、シベリア抑留経験者でもある。
 「その時、日本という国がどういう国なのか、よくわかりましたよ」とは、千野さんの言葉である。

 この件について、栗原さんは「棄民ですよ。ほんとにそうなの。」と述べている。

 戦前も戦後も、棄民だけはやめようとしなかった。
 一つレールを外れた人間を見捨てる癖は、きっと今も治っていない。



(未完)

*1:なお、上記の引用部について誤字があったので、訂正を行った。以上、2021/3/26