アラン・ド・ボトン『旅する哲学 大人のための旅行術』を読んだ。
以前、同じ著者による『プルーストによる人生改善法』についても取り上げたことがあるが、やはりこの本も面白い。
特に面白いと思ったところだけ取り上げる。
ディオゲネスは「ギリシア人とギリシア人以外という区別の立て方を軽蔑し、『きみの国はどこか』と聞かれると『わたしは世界市民(コスモポリタン)だ』と答えたと伝えられる。」(129頁)
よく知られているエピソードだが、引用した。
何々人という聞かれ方、決め付けられ方、断定のされ方、そういったものから逃れるためにディオゲネスはこう答えた。
彼にとって、世界市民とは、「ギリシア人」として区別されることへの抵抗であり、何かに所属することへの抗いだった。
「犬のディオゲネス」とまで言われた人物である。
もし、本当に世界政府が出来たら、その時には、彼は自らを「宇宙市民」と称するのかもしれない。
詩人であるワーズワースは、読者に、いつものものの見方を捨て、しばらくはこの世界が他者の目にどんな風に映るか考えてみたらと誘う。
人間のものの見方と、自然のものの見方との間を行き来してみたら、と。
なぜか。
「不幸は、たぶん、たったひとつのものの見方しかできないところから生まれるからだ」。
鳥たちが差し出す別のものの見方が、どんなに役立つか。
ワーズワース曰く、もしこの国の地元紙や全国紙や週刊誌が全て、土地の貴族や重要人物たちの到着や出発を伝えるだけでなく、鳥たちの到着や出発を伝えてくれたら、「民衆の多くにさらなる喜びを与えるだろう」。
「ビジネスの世界のかたわらには、牧場でヒバリが鳴いている世界も存在している」(192頁)。
さあ、みんな、エクストリーム出社しようぜ(違
あらゆる写実的な絵画は、現実の様々な特徴のどれを際立たせるか、その選択をあらわしている。
全てを捉えた絵画など、いまだかつて存在しない。
画家の選択が実に鋭く、その選択がその場所を「定義」するまでになると、私たちは、その場所を旅するとき、もはや偉大な芸術家がそこで何に注目したか、そのことを「思い浮かべずには通り過ぎることができなくなる」(243、4頁)。
これは、ゴッホについて著者がそう述べているところ。
優れた絵画は、鑑賞した人の世界の見方を、大きく変えてしまうのだ。
(近いことをメルロ=ポンティが言っていたような気もするが。)
絵画は「見られる」だけでなく、私たちに世界を「見せる」のである。
ラスキンの描写の力は、彼の技法から来ている。
その場所がどんな風に見えるかを描写する(「大地は灰色を帯びた褐色だった」)だけでなく、同時に、その場所が私たちに及ぼす心理的影響を言語で分析する(「大地はおずおずとしているように思えた」)ところにある(296頁)。
なぜプルーストがラスキンに惹かれたのか、わかると思う。
そして、ラスキン曰く、「わたしは風景のほうが絵より遥かに重要だと信じている。だから、わたしが絵を教えるのは、生徒が自然を愛することを学ぶためであって、絵を描くことを学ぶために自然の見方を教えるのではない。」(301頁)
絵が下手な人でも、絵を描く効用はある。
絵が、自然や風景を、学ばせてくれるからだ。
(未完)