新田一郎『相撲の歴史』(文庫版)を読んだ。
- 作者: 新田一郎
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2010/07/12
- メディア: 文庫
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相撲は大好きである。
あれはすぐに決着がつく、素晴らしいものだ(ソコカヨ
でも相撲、実際の歴史ってどんな感じか、意外に知られていない。
フランシスコ・ハビエル・夕ブレロによると、鎌倉時代だと力士は盗人や浮浪者、恐喝者と同列の扱いであったり、相撲節会というのは、実は平安時代の天皇と宮廷人のためだけが観戦するものであったり、土俵は歴史的には比較的新しいものであったり、大銀杏髷が義務付けられたのは明治42年(1909)のことだったりする。
こうしたことは知られていないだろう。(詳細は、この記事を参照。)
相撲を正しく把握するには、相撲とは何だったのか、「伝統」という言葉の抽象性によってではなく、可能な限り吟味された具体的な事実にそって、知る必要がある。
以下、気になったところだけ。
これは、『日本書紀』に載っている雄略天皇の話。「女性は国技館の土俵にあげない」という日本相撲協会の方針をめぐる議論を思えば、史書に記された最初の「相撲」が、いわば「女相撲」の記事であるというのは、いささか皮肉なこと (39頁)
「相撲」の文字が初めて登場したのが、この時である。
神話ではなく、ただの人が相撲を取った記録というのは、これが最初である。
エピソードを簡単にいうと、優れた石職人が、自分は失敗しないぜ、と雄略天皇に言ったので、天皇が意地悪して、采女に褌を締めさせて女相撲を取らせたら、石職人がそいつに気を取られて失敗したぜ、という内容。
雄略天皇、マジドイヒーである。
要するに、平安後期になると、宮中の公式行事として、相撲節が行われることがなくなったという話である。相撲好きにとっては甚だおもしろくないことではあるが、平安後期の朝廷が、相撲節を定例の行事として維持する努力をさほどはらっていたとは、考えられない (110頁)
相撲節(会)は、皇室と相撲との関係を象徴するものとして、当時から今に至るまで持ち出される行事である。
相撲節は、承安四年を最後として廃絶してしまう(104頁)。
もちろん、相撲そのものは引き続き、朝廷周辺で行われてはいた(107頁)。
しかし、ここで、「公式」とはいいがたくなったのも事実。
朝廷や天皇と相撲との関係を考える際、念頭に置いておかねばならない。
相撲は、興業でもあると同時に、日本の伝統文化を担う神事でもあり、かつスポーツでもあると、相撲の「混合性」をアツく擁護する玉木正之の相撲愛溢れる記事において欠けているのは、上記のような歴史性にほかならない。
後述するように、この時点から、相撲の神事としての性格は薄れてくる。
このように、相撲は宮廷内の神事から、奉納相撲としての娯楽に移り変わっていく。寺社における祭礼に奉納される相撲が、しだいにそこに集う人々自身のための娯楽としての性格を濃厚に帯び、祭礼本来の神事との結びつきの必然性を希薄にしてゆく(134頁)
著者によると、「近世村落の祭礼における相撲」も、「村落の祭祀のなかで生まれたものではなく、そのはじまりの時点においてすでに『相撲』は特定の様式をもって社会に存在し、専門的な相撲人も活動」していた(136頁)。
中世に興行化した結果、脱神事化し、中身も専門的になっていたのである。
たしかに、これ、プロレスである。江戸を中心に活躍した谷風と、もともと京坂で修業時代を送った小野川との対戦では、江戸では谷風、京坂では小野川がそれぞれ善玉となって、敵地での勝負よりも分のいい結果を残していたりする。この点も現代のプロレスと似たところであり、花形同士の取組では双方にキズがつかないように引分・預などといった勝負なしの結果が目立つようにもなる。/観客も、(略)そうした周辺の事情を承知のうえで、土俵上のストーリーを「芸」として楽しんでいた節がある。 (211頁)
当時は、勝負「預かり」なんてのも存在したのである。
そして、客も、こうしたプロレス的なストーリーを了解していたのである。
少なくとも、この江戸期には。
(ただし、当時の力士は大名がスポンサー(抱え)であり、大名の覚えがめでたくないとクビ(契約解除)になることもあったため、上覧相撲の時はガチ勝負が多かった。各大名のメンツもかかっており、ジャッジに「介入」するような事例も本書に書いてある。)
明治期になると、いよいよ真剣勝負の色を濃くする。従来かなりの数にのぼっていた引分・預などは、これを機にしだいに減少傾向を示し、大正末の個人優勝制度化に際して原則的に廃止されることになる。取り直し・不戦勝といった制度も、個人優勝制度の確立に伴って導入されたものである。優勝制度の制定とそれに伴う競技ルールの変更が、大相撲の性格を大きく変容させた (290頁)
相撲の「格闘技」化である。
その背景にあるのは、優勝制度(特に個人優勝制度)やルール変更などがあった。
ここに、江戸と明治以降との小さからぬ断絶が存在する。
もちろん、これを断絶と云い切れないところで、現在もなお、問題が生じている。
つまり、真剣勝負である(はずの)相撲において、筋書きが形成されてしまう、という今日に至るまでの事態である。
筋書きのある肉体のドラマ(興行)なのか、それとも筋書きなしのガチ勝負(スポーツ競技・武道)なのか、この曖昧な所で揺れる相撲。
それが魅力でもあり、危険な所でもある。
簡単にいうと、これまで「えた」にショバ代を払っていた相撲興行側が、それを拒否するようになり、裁判で争った結果、奉行所は、「えた」側の相撲見物を許さない、という判断を下した、という流れ。宝暦八年、武蔵野国多摩郡八王子村(現、東京都八王子市)における興行の際におこった争論について、町奉行所は(略)今後津々浦々に至るまで「えた」の相撲見物を許さないという穢多頭弾左衛門の請証文を提出させた (221頁)
「えた」への社会的差別がさらに強化されると同時に、相撲集団は社会的地位を上昇させた。
誰かの地位上昇が、他の誰かの地位低下に直結する悲しさがある。
実際、「興行を渡世の手段とする『相撲取』は、ともすれば賎視の対象とされがちであり、幕閣にあっては勧進相撲を「乞食の類の如く」に考える者もあった」(232頁)。
(ここでは、「相撲衆」とかの説明は省略する。)
この状況に対して、「上覧相撲の儀などを経て相撲興行が社会的地位を上昇させるに従って、相撲を「下賤」「失礼」とする露骨な言説はしだいに影をひそめてゆく」(232頁)。
つまり、将軍の上覧によって、差別を脱していくのである。
そして明治になると、今度は天皇の天覧に頼る(←重複)。
人の上に作られた人間の力を頼ることで、人の下にいる人間が引き上げられる、この力学。
この力学が大日本帝国でどのように利用されるに至ったかは、よく知られているだろう。
なぜ相撲はあそこまで、自分の伝統にこだわるのか。「相撲は武道である」とか「朝廷の相撲節の故事を伝える」「だからその他の興行物とは違う」という含意を持った主張は、そうした宿命から逃れようとする相撲興行集団の主張だった (232頁)
それは、そうした伝統にこだわる言葉を発しなければならないほど、差別されていたからである。
興行を生業とすることじたい蔑視されていた時代、そんな時、理論武装をせざるを得なかった。
そうした理由で、「武道」、「故事」といった由緒(言説)が必要だったのである。
(吉田司家の話は、ここでは省略する。)
相撲が「国技」と言われるようになるのは、実は明治時代の話である。江見水蔭の起草した披露文に「相撲は日本の国技なり」とする一節があるのに年寄尾車(元大関大戸平)が着目して、「国技館」の名称を提案した、といわれている。相撲を「国技」とする言説が世間にひろくおこなわれるのは、実はこれより後のこと (288頁)
「国技」よりも「国技館」の方が先立つ格好である。
「国技」という言葉もまた、前述したように、蔑視からの脱却の為のものだった。
宮廷の神事だった相撲は、徐々に奉納技芸として専門職化していき、江戸期には更に理論武装を進めて由緒正しい興行として、そして明治以降は「日本」を象徴する武道(としての娯楽)として、道を歩んでいく。中世には相撲節に由緒を求めた奉納技芸として、江戸幕府のもとでは故実に荘厳された勧進興行として、また近代には「日本的」なるものを象徴する大衆娯楽として、相撲はそのときどきの社会情勢によって人々の支持を求めてさまざまに装飾を変えてきた。 (299頁)
先ほど紹介した玉木の議論に抜けているのは、こうした相撲の歴史的変貌に他ならない。
ちなみに、敗戦時には、「相撲協会側も、戦前・戦中の『武道』から一転して『相撲はスポーツ、競技である』と積極的に主張している。この融通無碍、これこそが相撲であった」 (299頁)。
相撲は生き残るために、つねに変貌する。
節操がないからこそ、相撲はが様々な改革を成し遂げてこられたのも事実だ(吊り屋根を取り入れた相撲の偉大さ!)。
正直、1995年の古式大相撲のようなポストモダン的なイベント(詳細上記タブレロ氏記事参照)を臆面もなくやっておいて、今でもなお伝統()を盾に自分らの「体質」を変えようとしないのは、どうかと思う。
だが、改革のために一つ一つのシステムを変えていける、いい意味で変わり身の早い「伝統」はこれからも続けていって欲しい。
固執するなら、似非伝統ではなく、融通無碍な変化を厭わぬ精神の方だろう。
相撲は「国技」ではなく、変貌する楽しい存在だと思う。
次は何になるんでしょうかね、相撲って。
・・・プリキュアだろうか(イミフ
最後に相撲界の問題点について一つ。大相撲社会の仕組みは依然として大量採用・大量挫折を前提として構築されており、減少分の穴埋めの要求が外国出身者の採用意欲に結びつく。 (365頁)
いっぱいあるのだが、その一つがこれ、この変わらない体質である。
まるで芸能界みたいな、大量に採用して大量に落としていくシステム。
不況期は活躍できていたブラック企業みたいでもある。
だが、これは大量採用が可能な時だけ通用するシステムであり、もし大量採用が望めなくなったら、システムは破たんする。
そんな供給不足の時に行った措置が、相撲界のシステム改革ではなく、外国人採用だった、というのが、いかにも日本的な感じである。
嗚呼、相撲、日本の相撲。
だから変われ、相撲よ、お前ならできる。
そう、プリキュアに!(二度目
(未完)