読売新聞が、サッカーチームの訪朝を後押しした時代 -在日サッカーが「最強」だったころ- 木村元彦『蹴る群れ』を読む

 木村元彦『蹴る群れ』(文庫じゃない方)を読んだ。

 とりあえず、興味深かったところだけ。
 (本当は、小幡忠義氏や、イルハン・マンスズサビチェビッチのこととか、書きたかったのだが、まあ、いいや。)


 フセインの鞭打ちの噂は、いったいどこがソースなのだろう(13頁) 

 昔、まだサダム・フセインイラクで独裁者であったころ、サッカーイラク代表の選手に鞭打ちをフセインがくらわしているといううわさが流れた。
 だが、当時のイラク代表GKだったジャミールはそのうわさを否定している。
 フセイン独裁政権が終わった後の口述である。

 この手の話は、たいがい、根拠が薄弱なのである。


 "自己責任"などという奇妙な言葉が、これから日本で流行るとは夢にも思わなかった。フリーランスをさんざん使って、安全地帯で記事だけ取っている大新聞社が、今さら何をいうか。 (24頁) 

 著者の言葉に付け加えるものは無い。

 著者は、例のバッシング事件の時、イラクに入れなかった(目的はイラク国内リーグ取材だった)。
 流れを追うと、
 2004年4/7 日本人人質事件。
 同年4/9 アンマン入り。
 同年4/13 航空券を入手するもイラク国内リーグ中断でバグダッド入りをあきらめる。
 ざっとこんな感じ。


 <トットナム>のサポーターはわがチームでプレーするアルゼンチン人にブーイングどころか、最大の敬意を表した。彼らは「オジーがいてくれるなら、フォークランドなんかくれてやる」と記した横断幕を掲げた (108頁)

 アルゼンチン代表選手(1978年W杯優勝組)だった、オズワルド・アルディレスのエピソードである。
 Jリーグで監督をやっていたこともあるので、説明は不要だろう。

 フォークランド紛争の時、アルディレスは、トットナムに所属していた。
 そんな彼がサポーターから受けたのが、これである。

 今の日本のサポーターに、あるいは他国のサポーターに、できるだろうか。


 ヒズボッラ地区に指定された住宅地は、女も子供も老人も障碍者も、全員無差別に"ピンポイント"で殺されたのだ。 (134頁)

 レバノンに対するイスラエルの攻撃に関する一文である。
 ピンポイント爆撃、それはあくまでも地域を区分して爆撃しているだけであり、爆撃を受ける地域にはそうした「弱者」がいたのである。

 きれいな爆撃など、ない。


 60年代、レバノンスンニ派は、パレスチナのためにレバノンを壊した。70年代はマロン派がイスラエルと協力してレバノンを壊した。そして今のシーア派はシリアやイランと一緒になってレバノンを壊そうとしている。レバノンは過去30年にわたって、他人のための戦争ばかりしていた。でもその問題は、レバノン国民の中にあるのだよ。 (142,3頁)

 アドナン・シャルキ監督(当時レバノン代表監督)の言葉である。
 よく知られているように、レバノンは多宗教(宗派)の国であり、各宗派の人口に基づいて、決められた閣僚ポストや議会の議席が割り当てられている国だ。
 この国では、一つの国としてまとまるよりも、他国の似た勢力と結んで優位に立とうとする勢力が後を絶たない。
 シャルキはそのことを述べている。

 「60年代、レバノンスンニ派」云々は、レバノン史に疎いため分からないが、ファタハが1970年に黒い九月事件でヨルダンからレバノンベイルートに拠点を移した件に、関係している事柄であろう。

 「70年代はマロン派」云々は、レバノンファランヘ党などの活動を指している。
 ファランヘ党は、ファシズム政党であり、マロン派に強い影響を持つ団体だった。
 当初は反仏抵抗運動を行うも、独立後は、国内のアラブナショナリズムイスラーム勢力に対抗するために、イスラエルと手を結んだ。
 そして、1958年のレバノン内乱以降、増加傾向にあったパレスチナ難民の排除を、訴えるようになる。
 1980年代にはイスラエル軍の監視の下、パレスチナ難民虐殺事件を起こしている(サブラー・シャティーラ事件)。

 「そして今のシーア派」云々は、いうまでも無く、ヒズブッラーなどの名前で我々が知っている例のシーア派組織のことである。


 日本協会の理事に女性は何人いますか? ノルウェーは副会長も含む8人中3人が女性です。24時間女子のことを考えている人を、せめて1人は入れないといけない。(略)60年代までは何も与えられていなかったのです。地道に女子サッカーの種をまいて、今があるのです (212頁)

 ノルウェーのサッカー教会では、協会のリーダーの地位に女性が就くことは、珍しくない。
 だが、60年代はそうではなかった。
 彼女たちは、サッカー自体の活動から、協会への働きかけまで、努力によって、現在の地位に至った。
 日本のサッカー協会も、きっと、こうなる日が来る。
 努力が実を結ぶなら。

 一方、日本政府は「SHINE!」()をやらかした。


 東京市はこの一帯に住んでいた朝鮮人を、当時、ゴミ焼却場と消毒所しかなかった枝川に強制移住させた。それが枝川朝鮮人集落の始まりといわれている。 (218頁)

 1940年、幻の東京五輪
 この選手村を、江東区の塩崎や浜園に建てるために、強制的に移住させられたのが、朝鮮人だった。
 彼らは、この劣悪な環境で暮らすしかなかった。
 東京都江東区にある枝川のコリアタウンは、こうして生まれた。


 豊洲から門前仲町にかけては全焼し、東陽町などは折り重なった死体から道路に染みこんだ人間の脂が何年も消えなかったという。だが、奇跡的に枝川は焼けなかった。 (218頁) 

 1945年3月10日の東京大空襲
 
 だが、枝川は焼けなかった。
 他に行く場所がなかった朝鮮人たちの決死の消火作業が功を奏した、ともいわれている。

 戦争が終わった1946年、この場所に、民族学校の東京朝鮮第二初級学校が開設される。


 今もなお語り継がれる、当時の在日朝鮮サッカーの強さ。
 公式戦への道を閉ざされていたが、日本の強豪チームとの親善試合で勝利を重ね、その強さは伝説となった(←テンションの高い語り口調)。

 特に、「在日朝鮮蹴球団」は日本国内最強のチームともうたわれた。
 「在日朝鮮蹴球団」は、1961年に結成されたサッカーチームで、国内強豪クラブとの親善試合でその名をとどろかせたチームである。

 枝川の東京朝高も、他の朝鮮高校同様、当時の強豪チームの一つであった。


 ではなぜ、そんなに強かったのか。
 理由として、「在日コリアンサッカー界が在日朝鮮蹴球団をトップにいわばピラミッドのような強化に成功していた事、日本社会に対するプライドから常に勝敗にこだわった事」などがあげられる。(こちらの書評を参照。)
 


 江戸川区生まれの古沼は、母親から関東大震災時に行われた"朝鮮人狩り"の話を聞かされた経験があり、(略)母親は凄惨な現場に遭遇していた。両手を縛られた朝鮮人が川に飛び込み、それを巡査が上から撃って浮かんでこなくなった話、まだ幼い朝鮮人の子供が泣きながら自警団に連れていかれた話などを、古沼に聞かせていた。 (229頁)

 古沼とは、元・帝京高校サッカー部監督・古沼貞雄のことである。
 (最近、教え子の木梨憲武へのインタビューにおいて、その名前が出た。)

 古沼は、国内では最強ともいわれた枝川朝鮮学校サッカー部とは、試合などを通じて深く交流があった。
 そして十条(帝京)と枝川(朝鮮学校)との間では、試合内外で激しい「戦い」が繰り広げられたのだが、その詳細は本書を参照あれ。


 窮地を救ったのは読売新聞運動部記者(略)の牛木素吉郎だった。牛木はこの企画に賛同し、同行取材に名乗りをあげていた。 (233頁)

 習志野高校サッカー部が訪朝した時のエピソードである。
 この企画が反対にあった時、擁護したのは、牛木である。
 (いまどきだと、牛木素吉郎を知らないサッカーファンも、いるんだろうか。いるんだろうな。)

 当時の習志野は、堅守とFWの頭に合わせるカウンターで日本の高校サッカーでは無敵だった。
 だが、当時の日本よりもサッカー強国であった北朝鮮では、完膚なきまでに叩きのめされた。

 2戦全敗、13失点、無得点。

 そして、このあとに訪朝した東京朝高サッカー部も、北朝鮮の高校クラスのチームと戦ったが、全く歯が立たなかったようだ。

 この一連の高校サッカー部訪朝のバックアップをしたのが、小林與三次である。
 読売新聞社社長であり、正力松太郎の女婿でもあった人物である。
 本書によると、小林が訪朝のバックアップをしたのは、取材陣として讀賣が同行することで、北朝鮮の実情をスクープ出来る、と踏んだためであるらしい。
 読売新聞が、サッカーチームの訪朝を後押しした時代が存在するのである。
 (ちなみに、朝日新聞はこの一挙に対して反対に回っている、と本書に記述がある。おそらく、背景には当時の朝日新聞社内の「情勢」があるのだろうが、それについてはめんどくさいので触れない。)

 正力と、関東大震災のときの在日朝鮮人「虐殺」の関係については、ここでは書かない。(みんな知ってることだ。)


 在日朝鮮人のほとんどが南の韓国から来た人たちであるのに、なぜ北朝鮮を支持し、祖国と慕っているのか(略)戦後、日本からも韓国からも棄てられ、行き場を失った人々に対して、北朝鮮はいち早く"在外公民"としてその立場を守ってくれたのだ。ある在日一世の老人は言った。「北の政権に問題があることはわかっているが、あの恩だけは忘れない」 (235頁) 

 付け加えるべき言葉は無い。
 しいて言えば、集英社新書の『在日一世の記憶』は読まれるべき、ということくらいか。
 
 苦しい時に助けてくれたからこそ、というのが背景にある。

 もちろん、「共和国」側に問題が無いわけではなく、その問題性が在日サッカーに対して与えた「ダメージ」については、本書の中でも触れられている。(詳細は本書参照。)


 その後、1999年に在日朝鮮蹴球団はいったん解散の後、いろいろあって(←大雑把ですまん)、最終的に東京朝鮮蹴球団と合併して、2002年、FCコリアに生まれ変わった。
 このチームの代表兼監督である李清敬氏曰く
 「うちのマネージャーがカッコつけて、FCコリアは日本のビルバオバスク人だけによるスペインのクラブチーム)だって言うんです。 (略) FCコリアは在日朝鮮蹴球団と違って、コリアン全般を網羅しています。だから世界中のコリアンを受け入れている。これが民族をテーマに抱える、うちのチームのユニークなところ。在日朝鮮、韓国人はもちろん、日本に帰化した人、それぞれの国で育った朝鮮と韓国の人までいます」。
 ヨーロッパとかだと、その国のマイノリティが集まってできたチームは珍しくない。

 上掲引用元にある「FCコリアは日本全体がホームタウンだと考えています」という言葉に強さを感じた。



 (未完)

追記

 なお、上記の1972年当時の牛木氏については、当時の記事がネット上にあったので、紹介しておく。
 北朝鮮AFC加盟に賛成した記事(当時北朝鮮は未加盟で、その主張は読む限り、筋として正しい。)1972年6月号、「習志野高校サッカーチーム」が訪朝した時の記事1972年7月号習志野サッカーチョソンを行く(1)、当時の北朝鮮サッカーの強さを探る記事1972年8月号朝鮮と中国のサッカー(1)など、貴重である。