金子兜太、いとうせいこう『他流試合 兜太・せいこうの新俳句鑑賞』を読んだ。
これを読めばきっと俳句の面白さが貴殿にも分かる(という煽り)。
- 作者: 金子兜太,いとうせいこう
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2001/04
- メディア: 単行本
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季語が必要とは、子規は言ってない。
発句を俳句にした子規その人が、季題がなければならないなんていうことはひと言も言っていないですから。だから、虚子なんですよ。虚子が、なければいかんと言った。その理由は、今言ったように、兄弟子の碧梧桐なんかがうんと走っちゃったから。 (54頁)
金子はそう述べる。
子規は季題は特に必要だとは言っていない。
季題を言い出したのは、虚子である。
兄弟子である碧梧桐(「季語」なんていらねぇんだよ!)に対抗するためには、季題を掲げるしかなかった、というわけだ。
俳句に季題は必要か、というのは、よく問題にされる。
個人的には、不要だと思う。
季語の話題は、この本にはもっと出て来るのだが、今回は省略する。
発句から俳句へと「自立」したとき。
最上川を見て、土地の人たちと歌仙を巻いたときに、芭蕉は発句として「五月雨をあつめて涼し最上川」とやったんですね。その後へすぐ、土地の人が付けてるわけです。ところが芭蕉さんがそいつを『奥の細道』に書きとめるときには、発句を独立させて書くわけですから、「あつめて早し」と直した。「涼し」と言ったときは、挨拶を含んでいるんです。そして相手の応えを待っている。「早し」と言ったときは、自分の思いだけで作ればいい(以下略) (95頁)
金子はそのように述べている。
「涼し」だと、今ここでその涼しさを共有している人向けの言葉になるが、「早し」だと、よりヴィジュアル感が増すし、五月雨が集まって川に注ぐという壮大なイメージが出てくる。
こっちの方が句として上出来なのは、間違いない。
発句から俳句へと「自立」する時、こうした差異が生じた。
この芭蕉の使い分け意識が、俳句を明確に独立の文芸にさせたのだと金子はいう。
ただし、金子がいうには、(これは彼の持論なのだが)俳句にも一応のあいさつの意識は含まれている。
俳句を考えるうえで、忘れてはいけない大事なことである。
切字の意味、意味の曖昧さ(多重性)
俳句では、助詞はアキレス腱というものにあたるのかな。弱点ですね。 (171頁)
金子はそう述べる。
理由はつまるところ、名詞などが単純化して、散文的になってしまうから、だろう。
これは、切れ字の存在理由に関わる。
どういうことか。
「一瞬の間」というのがイメージを切り離した上でくっつけてみせる詩形の上での効能なのだと言われれば、たしかにその方がリズムとしても必要だということがよくわかります。 (183頁)
切字について、いとうは述べている。
イメージを切り離し、イメージを再結合して見せること。
やはり切字というのは、ひとことで言うと曖昧化というか、曖昧の美意識というか、そういうものを喚起するんじゃないかということが言えるんじゃないでしょうか。 (186頁)
金子はそのように述べる。
これに対して、いとうは、それは「多重化」といった方がいいのでは、という。
これが切字に関する明瞭な説明である。
例を挙げる。
「バルコニーで文庫一冊分の陽灼け」という句。
「で」を取り、曖昧さ(人が日焼けしているのか、バルコニーが日焼けをしているのか。)が出る。
こうしたあいまいさ、多重の意味こそ、散文では出にくいあじわいであり*1、ここを感得できるかどうかは、その人の資質に関わるものと思う。
(こういうのを感じられないなら、詩文の世界には近づかない方がいいだろう。)
この句がナンバーワンやで
ちなみに、金子がある句について述べている。
抱く孫の瞳のうるみ鯉のぼり
これは年配の女性が作った句だ。
これを金子は、
抱く孫の瞳のうるみ山法師
に直した。
この句こそ、この本で取り上げられた句の中でのナンバーワンだと思う。
飛躍しながらも、しかし、イメージはきっちり、多重化している。
つまり、前者だと、孫と鯉のぼりで容易にイメージがくっついてしまっているから、面白味は薄い。
だが、後者だと、山法師の白い花のイメージと、白い衣にくるまれた赤子のイメージが、連結して面白い。
それだけではない。
山法師、つまり僧兵の白い頭巾が、子供が衣にくるまれている様子を連想させるだけでなく、今の赤子と武装するいかつい僧侶との対比するイメージが衝突もして、いい句になっている。
ナンバーワンにふさわしいので、カラースター差し上げます(違
(未完)
*1:そういえば、以前に漢詩について書いた記事でも、同じようなことを書いたのだった。http://d.hatena.ne.jp/haruhiwai18/20100101/1262356459