『ブエノス・ディアス、ニッポン 外国人が生きる「もうひとつの日本」』を読んだ。*1
出版されて10年は経つが、いまだに古びていない。
それは喜ばしいことなのか(反語)。
野村進が書評*2でいうように、「激変する在日外国人社会の現状を知るためには必読の一冊」であり、「依頼人の七割以上が在日外国人という現役ばりばりの弁護士」が、「複雑多岐な実例をあげつつ、われわれが毎日のように見かける外国人たちが、日本で何を思い、どんな問題に苦しんでいるかを伝えてくれる」という、初心者から上級者(??)まで、おすすめの一冊である。
先行する他ブログの書評http://d.hatena.ne.jp/gkmond/20090225/p1で指摘されているように、「著者は何かを強制するというやり方を信じていない」のはその通りだろうし、「決して一方的に我々を糾弾する本ではない」のもその通りだろう。*3
ただ、「俺たちが知ってあげるだけでもすこしだけ世の中は優しくなる」かどうかは、正直分からない。
ブエノス・ディアス、ニッポン―外国人が生きる「もうひとつのニッポン」
- 作者:ななころび やおき
- 発売日: 2005/10/12
- メディア: 単行本
ザ・二枚舌
国は、ある事件では、不倫関係が継続することになるとの理由で、子もろとも国外追放を命じ、別の事件では、外国人妻を強制送還にして、日本人男性を不倫の責任から免れさせている。このような態度を「二枚舌」という。 (86頁)
詳細は本書を読んでほしいが、相当ドイヒーな例である。
最終的に外国人女性へしわ寄せが行くようなシステムが、日本において構築されている。
「外国人労働力」の議論における盲点
彼らのある部分は、日本で商売を続ければ、数年後には必ずや何人かの従業員を雇用して、手堅く商売を展開したに違いない。一円起業を認めるなど、国をあげてベンチャーを支援しようというご時世なのに、身ひとつで成功をつかもうとする外国人の若者はかやの外におかれたままだ。 (121頁)
外国人労働力の議論の際には、日本で雇われる外国人ばかりでなく、日本で人を雇う外国人についても思いをいたすべきだ。 (同頁)
付け加える言葉はない。
こういう視点が、日本のお偉い人たちには欠けているのだ*4。
理解より「権利」
「多文化」も、(略)外国人の子どもに公正な競争と機会の保護をするという観点が必要と思う。 (155頁)
文化の違いを理解うんぬんよりも、出稼ぎ労働者とその子どもたちが、職場や学校で経済的・社会的に不利な地位におかれている現状を変えることのほうが先決のはずだ。 (同頁)
その通りとしか言いようがない。
目下必要なのは、違いの「理解」ではなくて、「権利」である。*5
「不正送金」の実態
「不正送金」は、銀行免許を持たずに送金したことが問題にされているのであって、在留資格のない外国人から依頼を受けて送金したことが問題にされているのではない。これまで「地下銀行」とよばれ、銀行法で摘発されている業者がした送金は、業者にもよるが、むしろ在留資格を有して適法に滞在している外国人が稼いだ金がメインである。 (167頁)
「不法就労者」が仕事で得る所得のほとんどは給与所得で、所得税が源泉徴収されているのだから、不法就労者うんんうんは税収と関係ない。 (同頁)
これは門倉貴史の主張に対する批判である。
「不正送金」の実態、そして、「不法就労者」と税収との無関係を、著者は指摘する。
門倉好きも、アンチ門倉も、必読である(マテヤコラ
嗚呼、「人治主義」
在留特別許可は、本来強制送還されるべき者に対する例外的措置で、法務大臣が広い裁量にもとづいて、ときには国際情勢(!)まで加味して、個別的に判断するもので、基準はない、というのが法務省の説明で、裁判所も、これがタテマエにすぎないことに気づかないふりをして、法律の解釈をするという本来の役目をほとんど放棄している。だが、年間一万人もの者に対して与えられる許可が、個別的・例外的措置であるはずがない (196頁)
きちんとした法・原則(法治主義)によってではなく、実質的なある者の恣意性(人治主義)によって、制度の利用者が振り回される。
どこか、生活保護をめぐる行政の対応を思わせるところが、なくもない。
薄情な母?
子どもを手元において濃密なスキンシップをはかる母ばかりがよき母ではない。それは、日本の東北地方から農閑期に都会に出稼ぎに行って、毎月家族のために生活費を送り続けた父が、情に薄い身勝手な父でなかったのと同じことである。 (199頁)
民族的、そして、ジェンダー的なバイアスが露見した例である。
子を本国の親族に預けて養育してもらっている外国人の母が、薄情だと日本の行政は判断していることに対して、著者は批判している。*6
大日本国における、投票の時の文字。
舛添要一氏によると、一九三〇年一月、当時の内務省は同じくハングル文字での投票を有効とする省議決定をしており、舛添氏の父が生前市議会委員に立候補したときのポスターにはハングル文字のルビがふってあったという (210頁)
一九二〇年から、すでにローマ字での投票は認められていた (211頁)
以上、大日本帝国時代の基礎知識である。
舛添は「この時期、そのときは朝鮮人と呼んでいましたけれども、日本にいる朝鮮人の方々は参政権のみならず被参政権もあったわけであります。」「内務省が三〇年一月にローマ字と同じく朝鮮文字の投票を有効とすることに省議決定をしているわけです。ローマ字と同じくというのは、既にローマ字で書いてもよかったわけです。」と言及している。*7
当時、朝鮮半島の出身者でも、日本に住所があれば、国会議員については1年、地方議員については2年の居住を条件に、選挙権が認められていた。
そのため上記のような制度になっていた。
出国を希望する外国人を、自国で罪を犯したわけでもないのに、八か月以上も拘束し続けた日本政府
しかしながら、国の権限でできることは、領土・領海から外国人を追放することまでである。いったん領土・領海から出た外国人が、どこの外国に行くかは、日本政府の関知することでもなければ、強制することができるものでもない。(略)日米犯罪人引渡条約は、両国で犯罪とされる行為をした者に対してのみ適用されるところ(同条約二条)、ユーゴでチェスの試合をすることは日本では犯罪ではないからだ。 (216、217頁)
ボビー・フィッシャーの一件である。
「出国を希望する外国人を、自国で罪を犯したわけでもないのに、八か月以上も拘束し続けた日本政府の罪」(218頁)を著者は批判している。
ボビー・フィッシャーがだれか分からない人は、ググってみよう。*8
昔から日本の外交というのは、こんな感じである。
(未完)
*1:よく知られているように、「ななころびやおき」とはペンネームである。弁護士の山口元一氏が書いたのが本書。山口氏については、http://b.hatena.ne.jp/entry/synodos.jp/society/10010の記事が記憶に新しい。
*2:http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2011072700603.html参照
*3:著者は憎しみは表さないが、怒りは隠していないように思う。
*4:お偉い人たちだけではないのかもしれんが。
*5:別に、違いを理解する必要はないって話ではない。
*6:こういうバイアスは、官僚だけに見られるものではないのは、いうまでもない。
*7:http://www.kenpoushinsa.sangiin.go.jp/kenpou/keika_g/155_05g.htmlを参照。
*8:彼自身については、フランク・ブレイディー『完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯』(邦訳)という伝記が存在する。