なぜ文革後の中国において、「日本画」の技法が取り入れられるようになったのか、という話。 -荒井経『日本画と材料』を読む-

 荒井経『日本画と材料 近代に創られた伝統』を読んだ。*1

日本画と材料 近代に創られた伝統

日本画と材料 近代に創られた伝統

 


 紹介文にあるように、「日本画アイデンティティともされる『岩絵具』や『和紙』。それらの歴史は、意外なほど浅い」というのが本書の主意であり、それらの材料がどのように近代において変化したのかを主に解説している。
 日本画に興味のある人は、是非一読してほしい。

 以下、特に面白かったところだけ。

日本画の定義

 遠近法や陰影法を使いながらも墨や胡粉、膠といった日本在来の材料と技法で描いた近世絵画には、セミナリヨイエズス会の小神学校)で描かれた初期洋風画や、司馬江漢 (略) らが描いた第二期洋風画があるが、西洋由来のキリスト教蘭学を背景にした洋風画 (略) は日本画の前史に位置づけられてはいない。 (82頁)

 たとえば、膠や墨などを使うことが日本画(あるいは西洋画と対比される日本の絵画)の特徴である、とよく言われる。
 しかし、日本近世の洋風画においても膠などの伝統的な画材は使用されている。

 じっさい、「フランシスコ・ザビエル肖像画」(神戸市立博物館蔵)の場合、「純然たる油絵ではなく、基本的には日本画材料によるとみられるが、絵の表面には照りがあり、顔料の接着には膠【にかわ】に油性の液を混ぜて用いていると推測される」という。*2
 また「第二期洋風画」においても、小田野直武は「墨と伝統的な絵具を用いて」描いている。*3

 こうしたことから、著者は、日本画が必ずしも膠などを使って描く技法によって定義されてしまうわけではないという。
 すると、いよいよ日本画アイデンティティは揺らいでくる。*4

 岩絵具が砂っぽい由来

 彩度の高い鮮やかな青色や緑色を得るためには、あえて使い勝手の悪い砂状に留めておかねばならないのである。さまざまな化学合成によって鮮やかな色材がつくられるようになる近世までの世界では鮮やかさは掛け替えのない価値であった。(118頁)

 伝統的な岩絵具の群青と緑青における砂状の粒子は、先述のように彩度を保つための苦肉の策であり、決してマティエール(マチエール)を演出するためのものではなかった。 (同頁)

 群青と緑青は細かく砕けば砕くほど、彩度が下がる。*5 *6
 そのため、彩度が高い状態にするには、あえて使い勝手の悪い砂状にせざるを得なかった。
 これが近世までの日本の絵画において、岩絵具が砂状にされた主因である。
 ところが、近代においては、その砂状のマティエール(質感)にアイデンティティが求められるようになった。

 彩度を得るために砂状にせざるを得なかった、砂のテクスチャー自体の価値は関心の外だったのに、である。

印象派と朦朧派

 二〇世紀絵画がそれまでにない展開を見せることになったのは、印象派がメティエのたがを外したからにほかならない。朦朧体は、筆墨やそこから生み出される「線」という伝統絵画のメティエを放棄した点でも、印象派と重なっている。つまり 、現代日本画に水墨画を復興しようとすることは、約百年前に天心一派が朦朧体で訣別したはずの前近代的なメティエを復興することとも解せる (246頁)

 以前のメティエ(技術)から脱したという点で、印象派と朦朧体は重なっていると著者はいう。
 もちろんこの見方は印象派の一面でしかない*7し、あまりにおおざっぱな指摘ではあるのだが、興味深い。

 じっさい、印象派アメリカで「受けた」のは、「『アメリカン・トーナリズムという輪郭線をぬいた単色の色調の作風が(当時は)流行していた』ため、アメリカには『朦朧体の画風を受け入れる基盤があった』」からであるという。*8
 印象派に限らず、メティエを脱しようとする現象が西洋画壇を中心に起っていたと考えるべきであろう。

文革後の中国において、「日本画」の技法が取り入れられた理由

 現代の中国画は、模写の対象となっている古典絵画の系譜に位置づけられるということである。したがって中国画の模写観に立てば、古代壁画の模写をしている日本画は古代壁画の系譜ということになる。こうした模写観から、留学生たちにとって奇妙な絵画だった日本画は、中国では継承されなかった古代壁画の系譜として合点されたのである。 (略) さらに不可思議な色材だった岩絵具も古代壁画に使われた古典材料として重要視されるようになった。 (266頁)

 現代の中国には、「岩彩画」というジャンルが存在する。

 これは、日本で日本画を学んだ画家たちが始めたものである。

 もともと、中国には鉱物顔料を使った色彩ゆたかな画が存在した。
 そしてその絵が日本に伝わり「やまと絵」となった。
 しかし、宋代に水墨画が起こり、鉱物顔料による絵画技法は中国の地において、主流ではなくなってしまう。*9*10

 時は流れて、文革の終了後に日本に留学した画学生たちが、岩絵具による絵画技法を学ぶようになった。 
 日本画家・平山郁夫のもとで日本画を学んだ学生たちは、その授業の一環として、敦煌壁画を模写するようになる。
 敦煌の壁画は、中国留学生にとって忘れられていたものだったが、彼らはその模写を日本画の技法で行うことで、自身を古代中国絵画の系譜に位置付けていった、という。*11*12
 彼らは日本画を通して、自分たちの国の古代絵画の伝統を継承しようとしたのである。

*1:なお、著者は画家兼研究者である。http://www.kgs-tokyo.jp/interview/2006/060304a/060304a.htm 本書表紙も彼自身の絵をもとにしている。

*2: http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/158378より。ただし、http://ccs.tsurumi-u.ac.jp/bunkazaigakkai/27nenndo-shunnki-kore.pdfによると、「復元に際し膠と油を混ぜたが分離して全く混ざらず、テンペラのように卵を仲立ちにすると成功した」という。「ルネサンスの 15~16 世紀には部分的に艶をつけるなど卵黄テンペラから油性テンペラへの転換期が来ており、この時代にニコラオが来日していることからこの転換期の技法が伝わっていた可能性は高いだろう」とのことである。

*3:http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/205989より。ただし、司馬江漢の場合は、「荏胡麻の油を用いた油彩の技法」を用いたという。

*4:もし仮に、膠や墨などを使っていればたとえ洋風画であっても「日本画」に含む、とするならば、今度は、司馬江漢は含まないのに小田野直武は含む、という奇妙な状況になってしまう。「日本画」というのは、もっとゆるく、ウィトゲンシュタインのいう「家族的類似」として、とらえるべきなのだろうか。

*5:ほかの絵具については、細かく砕くほどかえって彩度が上がるものも存在する。詳細は本書を参照願う。

*6:ウェブサイト・『結晶美術館』の記事・「藍銅鉱と孔雀石」(https://sites.google.com/site/fluordoublet/home/colors_and_light/azur_malachite )には、次のようにある。

孔雀石として知られる塩基性炭酸銅 (Cu2(CO3)(OH)2) の鉱物は、確かに鉱物標本としては色鮮やかな緑色を示すのだが、緑色顔料としての着色能は実はそれほど高くない。微粉末にすると白っぽくなってしまい、あの鮮緑色は失われてしまいがちである。この現象は古くから世界中で認識されていて、日本画では鮮やかな緑青を得るには出来うる限り粗く挽いて利用するのが肝要であった。微粉末化したものは彩度が下がり、これは「白緑青」と呼ばれる

以上、2020/10/8にこの項目について、追記・加筆を行った。

*7:例えば、ドガは線を重視した画家であったはずである。

*8:https://ameblo.jp/mariodifuoco/entry-12287089508.htmlのより孫引きとなる。出典は「小島淳、横山大観「月明かり」の解説。p.53, 『飯田市美術博物館 所蔵日本画選』」とのこと。なお、引用にあるトーナリズムとは、「19世紀末から20世紀初頭にかけて米国に現われた風景画の一様式」であり、代表格である「ホイッスラーは輪郭線を曖昧化し、朦朧とした大気に覆われた世界を描くことで抽象絵画の表現に接近することとなった」という。http://artscape.jp/artword/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0

*9:「岩彩画」については、http://www.peopleschina.com/zhongrijiaoliu/2008-04/07/content_108952.htmも参照。これによると、「唐の時代に鉱物顔料で描かれた『重彩画』(濃厚な彩色画)は、日本に大きな影響を及ぼした。」

*10:この辺の流れ、特に水墨画が中国絵画史に与えたインパクトと、それに対する日本側の受容については、例えば、戸田禎佑『日本美術の見方―中国との比較による』などもご参照。

*11:著者によると、模写する対象というのは、中国においては、その流派にとって決定的に重要なものだという。敦煌壁画には、鉱物顔料(ラピスラズリなど)が使用されていたことも、念のため言い添えておく。

*12:ただし、http://www.peopleschina.com/zhongrijiaoliu/2008-04/07/content_108952.htmによると、「日本の巨匠たちが鉱物顔料を使っており、その作品の中に中国の伝統的な要素を内蔵していることを発見し、喜んだ。そして多くの中国の留学生が続々と海を渡って日本へ美術の勉強に行った」とある。留学の前から中国古代絵画の要素には気づいていたような記述である。