中野敏男『詩歌と戦争 白秋と民衆、総力戦への「道」』を読んだ。

詩歌と戦争 白秋と民衆、総力戦への「道」 (NHKブックス)
- 作者: 中野敏男
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2012/05/26
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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内容は、紹介文にあるように、「官僚がつくる『唱歌』に猛反発した北原白秋は『童謡』を創生し、震災後の社会に受け入れられて国民詩人の地位を確立する」が、その歌は「国民に奉仕を求める国家、みずから進んで協力する人々、その心情を先取りする詩人、三者は手を取りあうようにして戦時体制を築いてゆく」、というものである。*1
「“抒情”から“翼賛”へ」という流れを指摘することで、「戦前・戦時・戦後そして現在の一貫性をえぐり出」そうとしている。*2
「下」からのデモクラシーに潜む「下」からのナショナリズム、「下」からの「(軍事)体制協力」を焦点としている。
いろいろ読まれるべきところはあるが、特に面白かったところだけ。*3
明治国家は知っていた
この教科書を作る側の人々は、「故郷」が語る郷愁というテーマが小学校生徒にとって「了解に苦しむ」ような難しい題目であることを確かに理解していました。それにもかかわらず、「郷土を愛するの念」を「国家を愛するの念」と等置して「吹き込む」ために、そのステップとして「郷土を離れたものの愛郷の情を想像させる」訓練をしようというわけです。 (45頁)
著者は、明治期の唱歌に潜む人工性を指摘している。
それどころか、体制側は、その人工性に気づいていたというのだ。
そうした不自然さを承知で、国家側はうえつけて、訓練し、馴致させようとしたのだ。*4
こうした人工的な唱歌に対して反発し、より、受け入れやすい、非人工的な(装いを持った)歌を作ろうとしたのが、北原白秋だった。
大正期・自由主義に潜む罠
この童心主義は、郷愁という感情を本然的なものと認めることで、それを課題とするのではなく内在する前提にしているのです。だからこの「自由主義」には、確かに上からの押しつけはないと言えるわけですが、そこでは別様な人間の存在可能性が認められず、むしろ当然のことのように母を思慕し故郷を愛するようになる存在としての人間たちが、その意味ですでに社会化されている人間のみがいるということになっているわけです。 (58頁)
明治期の国家主義においては「国民にする」という訓育が課題であったのですが、 大正期のこの自由主義においては「国民である」ことがすでに前提になっているということです。 (同頁)
北原白秋の歌にある童心主義。
彼のつくる歌のなかにある郷愁は、その郷愁がまるで当然であるかのような装いをもって、歌われた。
あって当然のものである、と。
あって当然のものなら、押しつけであるわけがない、ということになる。
しかし、そこには、郷愁を持たない人間は排除される。
その「郷愁」の中に、排除の論理が潜んでいたのである。
白秋が活躍したのは、国民であることが自明になってしまった時代だった。*5
「自発性」を餌にした総力戦体制
自由にしても自治にしても個性にしても自発性にしても、「戦後民主主義」において初めて大切にされるようになったと考えられてきたいくつもの価値が、実は震災から戦争へ向かって組織された日本の総力戦体制の中にすでに組み込まれていて、むしろそれを支える重要な要素にすらなっていたことが分かります。 (280頁)
個性や自発性、こうした戦後の価値観は、すべて既に、総力戦体制の中に組み込まれていた、と著者はいう。*6
これが戦争協力の実情だった。
自発性というものは、そこで煽られ、総力戦体制の餌にされていたのである。*7
*1:本書の方法論については、いちおう疑念は呈されており、http://d.hatena.ne.jp/nikubeta/20130601/p1においては、「たとえば民衆とはなにを名指すのか。新興中間層として民衆の範囲が絞られる後半部はのぞくとして、前半部は民衆という言葉の規定がゆるく、統一的な歴史的主体として民衆をとりあつかうことの妥当性が問題となりえます。また本書で明らかとなった創作者、民衆、時代状況のあいだの連関のあり方を、照応、同型といった言葉を超えてさらに厳密に確定することができるかもしれません」と言及されている。
*2:似たような問題意識として、村岡花子を論じたケースが挙げられるだろう。http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/702469
*3:今回は諸々の事情で、本書の、白秋の歌の具体的な分析には踏み込まないことを、お断りしておく。
*4:著者も引用しているが、福井直秋『尋常小学唱歌伴奏楽譜・歌詞評釋』は、次のように書いている(坪田信子「日本歌曲・歌詞背景の研究(その2)文部省小学校学習指導要領共通教材曲において」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009470487 より引用した。)。
小学校生徒は遊学して居る時代でないから故郷といふ題目は了解に苦しむだらうと云ふ人もあらうが,我現在成長しつヽある處即ち故郷は此の如く懐しいものであると云ふ感じを吹込むつもりで作ったのである.郷土を愛するの念は,これ國家を愛するの念なり.郷土を思ふの念は郷土を離れて始めてしむ沁みじみと感じられる思ひである.郷土を離れたものヽ愛郷の情を想像させることは訓育上智育上恰好の材料ではあるまいか.
故郷というのは、結局郷土を離れないと思う気持ちも起こらないが、そういった気持ちを小学校生徒に「吹込む」どころか、「郷土を愛するの念は,これ國家を愛するの念なり」と、同一化すらしている。ただし、福井は、そういった人工性に意識的ではあったのである。
以上、この註は2020/2/6に追記を行った。
*5:小針誠は次のように述べている(「大正新教育運動のパラドックス」http://www.js-cs.jp/wp-content/uploads/pdf/journal/21/cs2015_03.pdf )。
子どもの自主性・自発性という点についても、教育審議会の答申「国民学校ニ関スル要綱」(1938年12月)では、詰め込み教育を排し、「常に自ら進んで学習せんとする強き興味と習慣を養うこと」が謳われている。また「作業を重んじ実践を通じて知識の涵養を計ること」とは言うまでもなく、労作教育などを指した内容であろう。労作教育については、1938(昭和13) 年に、文部省が「集団的勤労作業運動実施に関する通達」を通し、夏期休業中は公共の目的のために、児童・生徒が無償で自発的に労力を提供する勤労奉仕を行わせることができるようになった。それはまた、軍需工場等の勤労奉仕を通じて、少国民としての自覚を高めることも目的とされた。知識の詰め込みを排し、子ども自らの興味・関心を重視して、子ども自身の自主的・自発的な体験・作業を行う教育を通じて、最終的には「皇国の道に帰一せしめ」ることを目指していたのである。
以上、この註は、2020/2/3に追記したものである。
*6:引用部にある「自治」については、「民衆の歌への要求は、民衆の組織的な暴力として朝鮮人を虐殺した『自警団』の経験が、震災後町内の自治を自発的に強化する町内会出生の秘密ともつながっていることを、本書は『震災後の社会変化の核心』として描き出す」と、こちらの書評http://chosonsinbo.com/jp/2012/08/0810s/でまとめられているように、「自警団」の存在を視野に入れなければならない。