科学者は場合によってはその権利を行使して研究をサボタージュしなければならない 山本義隆『私の1960年代』を読む

山本義隆『私の1960年代』を読んだ。

私の1960年代

私の1960年代

 

 元東大全共闘代表による、自身の「1960年の安保闘争からの歩みと経験」を記した回顧録のような著作である。*1
 自身の学生運動の経験が語られるほか、近代日本の科学技術の歩みにおける問題点なども指摘されている。そして権威主義的な日本の大学に対する批判などにも話は及んでいる。

 読みどころは多いが、さしあたり、特に興味深かったところだけ触れておく。

国策への協力

 そのことにたいして、戦後にどのような反省がなされたのでしょうか (212頁)

 東大の理工系の学部は、創設以来、国策大学の国策学部として存在していた。
 特に工学部は、戦時下において軍事科学の研究と教育に密接な関連を持っていた。
 こうした事実に対して、反省はなされていない。*2
 それどころか、敗戦したのは「科学的真理」を無視した精神主義のせい、という理屈を以って反省の機会を逃したのである。
 戦争に加担したこと自体は不問にされてしまったのだ。

 教育学者も戦争翼賛 

 「軍務も一つの大きな教育の場」 (114頁)

 1944年、文系学生の徴兵猶予が停止され、学生が軍隊に徴集された。
 そのときの、文学部教育学部の海後宗臣(当時助教授)の言葉である。
 なお、戦後に教授になっている(日本教育学会会長も務めた)。
 戦後も日本教育史家として活躍したこの人物についても書きたいことはあるが、今回は省略する。*3

仁科芳雄永井隆

 科学者が未曾有の殺傷力と破壊力を持つ兵器を生みだしたことにたいする悔恨や罪悪感、あるいは畏怖の感情等は、片鱗も見あたりません。 (74頁)

 仁科芳雄永井隆も広島、長崎の惨状を目の当りにしており、放射線の危険性をよく知る立場にあった。
 また、永井は放射線医学の専門家で、原爆で被爆する以前から放射線障害による白血病を患っていた。
 にもかかわらず、二人はともに、「原子力」の将来に対して信頼を寄せていた。*4 *5

研究のサボタージュ

 このような状況下でなおかつ科学者が主体性を維持できるとするならば、むしろ私たちは、研究を放棄する権利を有していることを自覚し、場合によってはその権利を行使して研究をサボタージュしなければならない (79頁)

 研究者としての自己否定を著者は提唱している。*6
 科学研究が体制にすっぽり取り込まれている時代において、自分の研究がどのような社会的関連の中で営まれているのかに反省的なとらえ返しをせず、科学至上主義を語ること。
 それは、現状肯定・追随のうえに研究者としての既得権を擁護することでしかないし、普遍的な価値を持ちえないのだという。
 現代日本において、果たして、この真摯な言葉がどれほどの科学者の心に響くだろうか。*7

放射性廃棄物

 技術は技術に固有の領域、理論的な理解や根拠づけの困難な領域をかならず残しています (240頁)

 科学技術が科学に基礎づけられた技術だとしても、科学の原理論と同じレベルの合理性を有しているわけではない。
 二〇世紀になってからの化学、特に原子や分子に基礎を持つ科学の場合、廃棄物の問題はずっと深刻になる*8
 にもかかわらず、日本で原子力発電をめぐる議論が始まった当時(1953、54年頃)、物理学者の間で行われた議論では、「廃棄物の事などまったく議論され」なかった(254頁)。*9 *10

原子炉の安全性

 それが本当に設計どおりに作動するかどうかを実験的に検証することはできません (252頁)

 原子炉には、重大事故を止めるための緊急炉心冷却装置がある。
 その装置は、実際に様々な条件下で実験して、一度でも設計通り働かないことが示された場合、大事故に直結する*11
 いうまでもなく、そうした実験は実施できない。*12
 またコンピュータシュミレーションによる模擬実験にしても、数値実験であって、モデルの取り方によって結果が大きく変わるし、同じモデルでも、インプットするパラメータの値にはかなりの恣意性がある。
 つまりそうした意味において「不可能」なのである。

電力業界からのカネ

 「審査には影響しない」などというふざけた言い訳は絶対に通用しません (268頁) 

 班目春樹らの電力業界から受け取ったカネについて。*13
 公害問題を巡る訴訟で裁判官が一方の企業から「判例研究のための研究費」等の金をもらっていたら、裁判の担当から外されるし、免官されるだろう、と著者はいう。
 どうやら、<法>の常識が通じないのは「医学部」だけではないようである*14

 

(きっと続く)

*1:余談だが、著者に関するwikiがなかなか面白かったので、リンクを貼っておく。https://pchira.wicurio.com/index.php?%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E7%BE%A9%E9%9A%86もちろん、著者がタイガースファンだという話も書いてある。

*2:なお益川敏英によると、朝永振一郎は「表面上は軍事協力に協力して成果を出している振りをしながら、肝心なところは手渡さず、毒にも薬にもならない研究をして、「はい」と涼しい顔で論文を提出していた。しかし、量子力学を専門にしている人間が見れば、明らかに「意図的にこのレベルに抑えているな」ということが分かる」という(「あのノーベル賞科学者が安倍政権の軍学共同政策を批判! 軍事に手など貸すものか! 戦争協力への動員はもう始まっている!」『LITERA』https://lite-ra.com/2015/10/post-1559.html)。興味深い方法だが、これが今の学者にも応用できる方法かどうかは、楽観視できないように思われる。

*3:海後の戦争翼賛の教育学者としての側面については、松浦勉「海後宗臣の中国占領統治= 植民地主義教育の政策構想 -十五年戦争と日本の『講壇教育学』-」等が読まれるべきであろう。https://ci.nii.ac.jp/naid/110009561553  海後は、戦中に「外務省や軍部の要請に応えて、文部省より数次にわたり中国に派遣され、日本(軍)の占領統治=『文化工作』の一環をなす占領地教育制度を構想・提言」したりするなど、「戦争翼賛」の言葉通りの活動をこなっている。

*4:実際、仁科芳雄は、1947年の時点で、原子力の安全性について、「危険なのは前述の放射線であって、これは発生装置からも、それから取り出す物質からも多量に放射せられ人体に危害を及ぼすものである。これには充分の注意を払わねばならぬが、現在原子爆弾の製造工場ではこの害を防ぐことが知られているから、それと同様の措置を講ずれば好い」という楽観的な見解だった。以上は孫引きとなる。出典は、https://ameblo.jp/ohjing/entry-11182022774.htm。そして、「作家たちや庶民」も、「軍事的利用としての「原爆」には否定的な立場をとりつつも、平和的利用としての「原子力」には肯定的だった」という点も踏まえねばならない。出典は同様。

 なお、仁科の発言は、仁科芳雄原子力問題」(『原子力と私』学風書院、1951年、89頁)を参照。以上、2020/10/8にこの項目について、追記・加筆を行った。

*5:「『原爆は神の摂理』『原子力であかるい未来』とのべた永井の作品の思想のベクトル(つまり核の平和利用)がアメリカ・日本の政治的ベクトルとおなじ方向とみられうる資質をもっていた」がゆえに、永井隆による原子力を"礼賛"する言説は、原発推進派から利用された。小西哲郎「核の『平和利用』と永井隆https://ci.nii.ac.jp/naid/110008894921 を参照。

*6:「1966年5月 日本物理学会主催の半導体国際会議 開催費用の一部に米軍から資金提供を受けたことが明るみに」出た件に対して、「日本物理学会は今後一切軍隊を関係を持たない」とする決議が可決される。「『場合によっては研究をサボタージュすべきだ。』という考えが、学者の内部から出てきたのは、あの運動が初めて。」だと、著者の山本は講演において述べたという。https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/32196031.html

*7: 軍事研究の問題については、杉山滋郎「軍事研究,何を問題とすべきか : 歴史から考える」が読まれるべきだろう。https://ci.nii.ac.jp/naid/120005768805

*8:著者の『福島原発事故をめぐって いくつか学び考えたこと』に対する或る書評は、「完全に科学理論に領導された初めての純粋な科学技術、それがまさに原子力であった。その際、理想状態における核物理学の法則から現実の核工場までの懸隔を架橋する過程は巨大な権力に支えられて初めて可能となった。その結果、それまで優れた職人や技術者が経験主義的に身についてきた人間のキャパシティーを踏み越えたと論じている」という風に言及している。http://yokoken001-note.hatenablog.jp/entry/2018/01/20/154909

*9:軍事利用、核兵器開発につながるのではないか、という議論はなされたようだが。

*10:著者は、講演において、「科学は自然界ではありえない理想的な状況をつくって特定の現象を法則化するが、それを技術として利用する際には公害などの様々な弊害が生み出される。いまは誰でも知っている放射性廃棄物の問題も、原子力発電の研究に携わっていた研究者は誰も考えようとすらしなかった。こういう弊害の責任は科学そのものにもあるのではないかということが60年代後半から徐々に明らかになってきた。/東大闘争の中でも、そういうことをやっている研究そのものとはいったい何なんだろうという問題意識が生まれてきました。」と述べている。http://yamazakiproject.com/events/2015/01/10/968

*11:そもそも軽水炉というもの自体が、「出力密度向上」によって「安全性をぎりぎりまで削って獲得した」存在であり、「冷却に失敗すると直ちにそれがメルトダウンにつながるような」「シビアアクシデントの特徴」を持つものだという(「舘野淳著『シビアアクシデントの脅威』を読んでみた」『Yama's Memorandum』https://memorandum.yamasnet.com/archives/Post-5600.html)。

*12:そうした言及は、過去に別の著書で言及したことがあったようだ。http://www.geocities.jp/out_masuyama/dokusyo30.htm参照。

*13:班目について、不破哲三は2011年に「原子力安全委員会の委員長の班目(春樹)さんは、この任につく前だったと思いますが、浜岡原発の安全性をめぐる裁判があった時に、なんと電力会社側の証人として法廷に出て、浜岡原発は安全だ、あなた方(原告側)のようなことをいっていたら原発などつくれませんよと大見えを切った、そういう人がいま原子力安全委員会の委員長です」という風に言及している。https://www.jcp.or.jp/web_policy/2011/05/post-170.html 後年の衆議院議員による質問主意書からもその事実は裏付けられる。http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a180156.htm 

*14:詳細は追々書く予定の続編記事を参照。