ベトナムにも四季はあるし、上座仏教にも呪術はある -桃木至朗『わかる歴史・面白い歴史・役に立つ歴史』を読む-

 桃木至朗『わかる歴史・面白い歴史・役に立つ歴史』を読んだ。

わかる歴史 面白い歴史 役に立つ歴史 (阪大リーブル013)

わかる歴史 面白い歴史 役に立つ歴史 (阪大リーブル013)

 

 内容は、「日本史・アジア史・西洋史の全体をとらえ、歴史の魅力を探る。歴史によせる高校・大学・市民の期待に向き合う阪大歴史学の成果」と紹介文にある通りである*1
 AMAZONのレビューにもある通り、著者は専門の「東南アジア史」について、「決して世界の中心になりえなかった」ことこそが意義としており、そうした「周辺」から歴史を見る意義も、本書から学ぶことができる。

 特に面白かったところだけ。

四季を自慢する国

  ベトナムの生徒が同じことをベトナムだけの特徴と教えられている事実 (38頁)

 「美しい四季を愛でる心」はわが国固有、と考える国は、ほかにもあるのである。
 当たり前であるが。
 そもそも、「ベトナムは南国のイメージから常夏を想像されがちだが、それは南部の話で北部は四季がある」のである*2

上座仏教の大衆的基盤

 厄よけの呪術、乱世の救世主信仰(転輪聖王弥勒仏)などを取り込むことで、上座仏教は大衆的基盤を確立した。 (205頁)

 上座仏教も、根付いた土地では、このような土着化を行っているのである*3 *4

インディカ米と日本史

 戦国時代に九州・四国でインディカ米の栽培が急速に広がる (222頁)

 排水の困難な低湿地などの悪条件の場所だと、インディカ米は強いので普及したという。
 江戸期には衰退するが、明治まで続いたようだ*5

(未完)

*1:桃木先生といえば、歴史用語の精選案の件http://b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/articles/ASKCM5T7PKCMUTIL019.html で知られているが、本稿ではこの話題については触れない。

*2:清水大格「ベトナムでの2年間」http://www.criced.tsukuba.ac.jp/jocv/report/sympo_h17/shimizu.pdf より。日本でも沖縄や北海道等は本土とはまた違う季節感があるので、その点似ているだろう。また、グエン・ヴー・クイン・ニュー「『古くて新しいもの』 : ベトナム人の俳句観から日本文化の浸透を探る」http://jairo.nii.ac.jp/0378/00002250/en は、「ベトナムにも時候、天文、自然観や年中行事などがあり、季語になる単語は豊富にあります」と言及している。

*3:小川絵美子「タイにおける占星術 -寺院における占星術師の活動を事例として-」http://jsts.moo.jp/thaigakkai/journal/ によると、「タイの民衆たちの間で信仰されている上座部仏教そのものにもヒンドゥ的民間儀礼、ひいてはホーラーサートに繋がる呪法を受容している部分が認められる」という。理由として「即時的な問題解決を望む在家信者の欲求に直接的に答えるため」などが挙げられるようだ。そして、「上座部仏教を信仰する他の東南アジア諸国では広く、占星術をめぐる類似の現象がみられ」るという。ただし、タイでは「呪物を販売したり、ひとの求めに応じて呪術を行う出家者は一歩誤れば世俗的とみなされ、民衆の尊敬を得られないばかりか、批判を受けることもありうる」という。

*4:転輪聖王思想は、上座部仏教スリランカを経て東南アジア大陸部へと伝播するなかでローカライズされていき、転輪聖王とは仏教を庇護するために武力をも用いて四大洲のひとつ贍部洲を統一・支配する王へと変化していった」と、川口洋史「トンブリー朝シャムの王権像とその文献的背景に関する覚書 : 転輪聖王と菩薩」 https://nufs-nuas.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=952&item_no=1&page_id=13&block_id=17 は、書いている。

*5:伊藤信博「室町時代の食文化考 : 飲食の嗜好と旬の成立」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005411096 によると、「中世には赤米種および白米種、糯米種、粳米種もある『大唐米』(占城稲)が流入し、気候条件に左右されず、どのような土地でも育つことから、新田開発の条件にも適し、低湿地帯や水はけが悪く、常に湛水状態の土地や洪水時に湛水しやすい土地、高冷地で盛んに栽培された」という。この中世から近世にかけて、「インディカ米である大唐米」は、「西日本から南で、かなり多く栽培され、江戸時代でも、日本の殆どの地区で栽培されている」という。じっさい、「享保三年(1718)刊行の『御前菓子秘伝抄』には、大唐米を使用したお菓子(あられや餅)が、合計十五種類も記されており、この写本が作られた時代は、糯米といえば、畿内では、大唐米の糯米種を使用することは当たり前だったと想像できる」と、けっこうポピュラーだったようだ。