そういう行政をもったら「この世は終わりだ」くらい考えたほうがいい -木庭顕『笑うケースメソッドII』を読む-

 木庭顕『笑うケースメソッドII 現代日本公法の基礎を問う』を読んだ。

[笑うケースメソッドII]現代日本公法の基礎を問う

[笑うケースメソッドII]現代日本公法の基礎を問う

 

 内容は、紹介文にある通り、「公法の根底にある、近代ヨーロッパ概念である政治システムとデモクラシー。そしてそれらが全面的にギリシャ・ローマの観念体系に負うことを踏まえ、人権概念へと迫る」という内容である。
 AMAZONのレビューでは、「本書の脚注に挙げられている数多の文献のうち、ほとんどを読んでいないことに絶望感を覚える読者が大半なのではないだろうか」と書かれているが、その絶望感をやり過ごして、以下に、特に興味深かったところだけ、書いていきたい*1

占有呼ばわり

 私もロースクール棟の廊下で見ず知らずの学生にいきなり「あ、占有!」と指差されました。名誉と思うべきでしょうか。 (100頁)

 笑った。 

 みんなが迎合主義になったとき、たった一人孤立した個人を擁護するのが法じゃなかったんですか? (301頁)

 「社会通念」が幅を利かせすぎているが、それで済めば法は不要である。
 大事なことなので改めて。

そもそも外来文化

 近代ヨーロッパにとってもギリシャ・ローマの学者の産物、「外来文化」 (25頁)

 木庭のいう「政治」が、近代ヨーロッパにおいてさえ不完全にしか消化できず*2、さらに、源流たるギリシャ・ローマでさえ、未完に終わったこと、そして、それは我々と変わらないことを、忘れるべきはない*3
 そう、著者は書いている。

誰のものでもない「憲法

 中世イタリアのポデスタを見ればわかるとおり、憲法は外国人に起草してもらうのが正規でさえありました。 (25頁)

 憲法がすべての立場や主権者さえ越える以上、絶対多数、全員でさえ、自分たちで書けば、自己利益の追求になってしまう*4
 公平な専門家からなる第三者委員会が起草することが望ましい、と著者は言う。
 なお、引用部の「ポデスタ」とは、中世イタリアのコムーネにおける執政職を指す。*5 

政教分離と信教の自由

 政教分離と信教の自由は全然ちがう (114頁)

 政教分離の目的は信教の自由ではない。
 二つは異なるものである。
 実際、主権者が宗教を独占するホッブズ的体制でも、政教分離は貫かれている、と著者はいう。
 政教分離においては、方法は違っても、政治システムの中に「団体」を進出させてはいけない、というのが大原理である*6
 対して、信教の自由はあくまでも個人の精神の自由*7なのである。

「奴隷」だらけの現代

 ところが近代に関係が逆転し、働くほうは他人の占有内で、その他人の支配下で労働するようになった (131頁)

これはローマなら奴隷の地位である*8
 自分の労働を「使わせてやる」という優位が崩れてしまった*9 *10
 これをカヴァーするために分厚い立法がなされ、労働契約は事実上契約法を離脱し、代わりに占有保障の体制が構築されたのだと著者は見る。

アンティゴネ―と「反コンフォルミスム」

 アンティゴネーが死を賭して望んだ理由は、肉親に対する情ではありません。 (160頁)

 ソフォクレスのテクストにおけるアンティゴネ―について。
 死を以て埋葬を禁じるクレオンこそ当時流行の徹底した利益多元論に依拠し、血と土、互酬性、見せしめなどの古い観念に毒されていると著者はいう。
 アンティゴネーは、そうした利益計算が集団のロジックにほかならず、個人のかけがえなさを踏みにじることを、透徹した論理で明るみに出す*11
 徹底した反コンフォルミスム(反画一主義)なのである。

古代ギリシャ社会保障

 社会保障、とくに子供に対するそれは周知のごとく典型的なギリシャ的伝統です (185頁)

 20世紀以降国家サーヴィス・メニューに加わったというのは俗説だと著者はいう*12
 夜警国家など、イデオロギー色の強いスローガンに過ぎないとも。

真の合理性

 見かけの合理性と真の合理性は区別されなければなりません。後者は政治に固有の自由な議論によってのみ得られます。 (221頁)

 いっぽう前者は、誰か一人の頭の中だけに存在する「合理性」である。
 例えば、勝手な計算で効率的な団地を大規模に立てても、住宅問題の解決にはならない、と著者は述べている。
 著者にとって、「合理性」とは、複数の者同士の緊張感のある相互チェックを前提とするものである*13

行政の恣意

 そういう行政をもったら「この世は終わりだ」くらい考えたほうがいいですよ (204頁)

 外国人に本来発給すべき在留許可を出さないのは、その権利を侵害しているだけではない*14
 公的な作用が致命的に害されているのである。
 そういう政治システムであると、行政の恣意を生み、我々一人一人の自由が脅かされる*15

 

(未完)

*1:ところで著者は、「倫理が自然状態に内在しているなどという混乱した概念ですね」(281頁)という風に、ヘレニズム期からすでに自然を社会学的メカニズムで汚染することが始まっているとしている(近代の代表者としてプーフェンドルフを挙げている)のだが、この点については、まだこちらも消化しきれていない(彼の法学にどう位置づけるべきか解っていない)。本文とは何の関係もないが、備忘として書いておく。

*2:近代ヨーロッパにおける「政治」受容については、樋口陽一、蟻川恒正との「鼎談 憲法の土壌を培養する」において比較的簡潔に語られているhttps://ci.nii.ac.jp/naid/40021526946

*3:「西洋は西洋、日本は日本。何故よその事情に従わなければならないのだろうか?」と、本書のAMAZONレビューで問うている人がいるが、究極的には、「最後の一人」のため、ということになるだろう。そして、「ギリシャ・ローマの人々がある時、『どうしたら社会の中で力の要素がなくなるだろうか』と考える」、そこへの共感の是非であり、「木庭は言う。人の苦痛に共感する想像力があって初めて、何が問題かが掴(つか)める。よってまず直感せよと」という時の「想像力」の問題である(「毎日新聞 加藤陽子・評 『誰のために法は生まれた』=木庭顕・著」)https://mainichi.jp/articles/20181014/ddm/015/070/012000c 。 

*4:以前書いたとおり、著者のレスプブリカ概念を考えれば、決して特異な考えではないだろう。

この「立法者」は、つまるところ、主権者・人民に提案すべき法律を起案する者のことだから。彼自身の言い方に従えば、主権者の権力すなわち立法する権力それ自体からは区別される立法の権威なのだから。 ルソーはこうも言う。――「ギリシャ都市国家の多くでは、自分たちの法律の作成を外国人たちに委ねていた」。日本国民も、まさしく、その典型ともいうべき出来事を経験してきた

という樋口陽一の言葉を想起すべきところか。(『抑止力としての憲法』 https://kingfish.hatenablog.com/entry/20180216) 

*5:ポデスタはそのコムーネの外から選出された。「多くは他の都市から法知識のある貴族を招請し」、「選出・招請は、間接選挙、又は間接選挙とくじ引き(15)を組み合わせた方法等により行われた」という。「ポデスタとカピターノ・デル・ポポロの任期が極めて短く、再選が妨げられたのは、彼らの専横を押さえ、彼らが独裁者化するのを防ぐためであった。これは、取りも直さず、自治都市の共和政の伝統を守ることであった」。(三輪和宏「諸外国の多選制限の歴史」http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/999740 )。まるで古代ローマ独裁官(任期付)である。

*6:既に旧版の『ローマ法案内』(羽鳥書房、2010年)等で説明する通り、古代ローマでは、「宗教について不寛容であるというのではなく、団体について不寛容」(43頁)であった。まず、自由な体制こそ重要であり、宗教が団体を意味する場合は全く自由ではありえない、という考えであった。

*7:木庭に言わせれば「占有」の一種であろう。

*8:木庭は、「同一占有内労働人員」を「奴隷」としている(「東京地判平成25年4月25日(LEX/DB25512381)について,遥かPlautusの劇中より」http://www.sllr.j.u-tokyo.ac.jp/10/papers/v10part08(koba).pdf )。ついでに、以下の証言も紹介する。

古代ローマの奴隷も貴重な労働力だったので、家族を持つことができる労働条件だった。木庭顕先生のローマ法の講義で、「古代ローマでは、奴隷が自分の家族と一緒に食事をする権利が保証されていた。現代日本のサラリーマンは、古代ローマの奴隷以下です」とおっしゃっていたのが、印象に残っている。

石川公彌子氏)https://twitter.com/ishikawakumiko/status/932499852776239106 

*9:田中純は、「アテナイが (引用者略) 家内奴隷制と市民権が出現して支配的な社会関係となるのは、ポリスの成立と同時期であったとされている」とし、「ポリスと政治の誕生がディアレクティカを通じて、ディアレクティカとして語られる以上、奴隷という『言葉なき者』の影がそこからまったく消失するのは当然である」と述べている(「心の考古学へ向けて──都市的無意識のトポロジーhttp://tenplusone-db.inax.co.jp/backnumber/article/articleid/1002/ )。三部作がそろった現時点の木庭のローマ法学おいて、「奴隷」がどのような存在として位置づけられるのかは、なかなか興味深い問題である。とりあえずは、「フィンリーは、理念的に完全な自由――古典期のアテネ市民の置かれた地位がそれに近い――と完全な隷属――鉱山奴隷の境位のごとき――とを両極とする諸身分のスペクトルなるものを想定する。自由人にせよ、広義の奴隷にせよ、現実に人はこのスペクトルのどこかに位置づけられる、とするのである」(伊藤貞夫「古代ギリシア史研究と奴隷制」 https://ci.nii.ac.jp/naid/130003655720)とあるように、奴隷の自由/隷属の度合には幅があったことに留意が必要であろうし、ついでに、「近代の労働者は他人の占有内に入り込み、費用投下の通り道となる。占有サイドに立たないのである。奴隷と同じである。」https://twitter.com/tomonodokusho/statuses/970279219493158917 という木庭『新版ローマ法案内』の言葉も想起されるべきであろう。

*10:本文とはあまり関係ないが、ローマ法の家族法的側面について、少し書いておきたい。

 「多くの点で、ローマ法における成人女性は、近代以前のほとんどの法制度におけるより独立していた」(中村敏子『トマス・ホッブズの母権論』128頁)とあるように(現代のアメリカで編集された古代ローマ法に関する判例集に載っているという)、ローマ法では、結婚においても別産制が貫かれたため、「自権者」として独立していれば、結婚後も女性は自分の財産を自由に使え、20世紀以前の英米の既婚女性よりずっと多くの財産権を持っていた。(中村の主張については、論文「ホッブズの「ファミリー」概念に対する古代ローマ法の影響」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005327670 をネット上で読むことができる。)

 こうした女性の財産的自律性については、木庭は、『新版 ローマ法案内』において言及している(当該書・81~85、200~203頁)。ただし、木庭自身は、「より高級な(実力に遠い)占有」(85頁)の構築という点に重きを置いて、論じている。

 以上、この註について、木庭著について読解不足があったので、内容の訂正を行ったことを予めお断りしておく(2019/12/22 )。 

*11:

クレオンはたとえ親族であろうと敵は埋葬しないという国家の制度を重視すべきと考えたのに対して、アンティゴネーは血縁だから埋葬するのではなく、敵だから埋葬しないという考えに反対している」「もう、死んでしまっていて、誰とも替えのきかない存在になっている」から、集団が個人を犠牲にしていくのを批判し、犠牲にされる個人を救うにはどうするかを考える。

(「揖保川図書館 大西」氏による木庭著『誰のために法は生まれた』に対する書評(たつの市立図書館発行「来ぶらり」2018 年 11 月 1 日 No.158 11月号 http://www.city.tatsuno.lg.jp/library/burari/documents/1811.pdf ))

*12:「典型的なギリシャ的伝統」は、次の著者の言葉に関連するものと思われる。たぶん。

交換を避け、一方的で見返りを切断された贈与が政治システム自体に対してなされ、政治システム自体がそのような贈与として見返りなしに信用供与する。古典的方式の場合、政治システムの人格化さえおそれ、特定主体から特定主体への、政治的決定による裁可を経た、贈与、として概念構成された。これは何も突飛なことではない。現在でも、税と社会保障の関係はこれであり、社会保険や年金団体による解決は上の最後の部分とパラレルである。今人々の生存を支えておけば、将来の税収になり、それはまた新たな人々の生存を支える。ポイントは、これが不透明な交換にならないようにすることであり、政治システムの任務は、それを透明にすべくガヴァナンスすることである。

(「科学研究費助成事業(科学研究費補助金)研究成果報告書 信用の比較史的諸形態と法」 https://kaken.nii.ac.jp/file/KAKENHI-PROJECT-20243001/20243001seika.pdf) 

*13:木庭とハイエクの議論はいくつかの点、例えばハイエクのいう「設計主義」には批判的であるといった点などで似通っているが、異なる点もある。例えば、木庭のいう「政治」を重視するか否か、という点である。

ナイトは「議論による統治」を目標とし、人間は知的であり、人間による民主主義的な議論により正しい法を確保することを理想とした。それとは反対に、ハイエクは、人間は無知であると見做し、進化した「法による統治」が必要と考え、民主主義についても消極的な賛成に留まった。

今池康人「フランク・ナイトによるハイエク批判の検討 : 「法の支配」と「議論による統治」」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006453249 )

*14:「現地情勢や人権状況の厳しさが明白な国・地域からの難民が、日本では難民としてなかなか認定されない」理由として、滝澤三郎は、法務省の「難民」の定義が狭いこと(法務省は条約を厳格に解釈し、「紛争難民」を「難民条約上の難民」であると認めないなど、その認定基準は厳しく、「本来救われるべき難民も日本に来ることを避けてしまう」)を挙げ、「外国から来た人々を管理し、取り締まる組織が、同時に難民を庇護するということは両立しにくい」点を問題点とし、「法務省の中でも人権を扱う、人権擁護局に難民認定審査を担わせることが良い」としている(志葉玲「認定率は0.2%「難民に冷たい日本」―専門家、NPO、当事者らが語る課題と展望」 https://news.yahoo.co.jp/byline/shivarei/20180509-00084621/)。

*15:たとえば、生活保護申請における「水際作戦」等を想起すべきだろう。大西連「生活保護の水際作戦事例を検証する」http://synodos.jp/welfare/4583 等参照。