実は、人権は権利ではなくて、占有であった。 -木庭顕『誰のために法は生まれた』を読む。-

 木庭顕『誰のために法は生まれた』を再読。 

誰のために法は生まれた

誰のために法は生まれた

 

  内容は紹介文にある通り、「追いつめられた、たった一人を守るもの。それが法とデモクラシーの基なんだ。替えのきく人間なんて一人もいない―問題を鋭く見つめ、格闘した紀元前ギリシャ・ローマの人たち。彼らが残した古典作品を深く読み解き、すべてを貫く原理を取り出してくる。この授業で大切なことは、感じること、想像力を研ぎ澄ませること。最先端の知は、こんなにも愉快だ!中高生と語り合った5日間の記録」という内容。
 基本的には、過去に書評してきた本とくらべれば、平易かつ簡潔な内容である。

 特に面白かったところだけ。

再びアンティゴネ

 血縁主義だったら両方とも重んじるのに、下のほうのお兄さんだけをやっているから、血縁主義者とはいえない。 (引用者略) 自分はポリュネイケースの埋葬だけを論じている、切り離して個人としてのポリュネイケースを捉え、他を完璧に捨象しているのである、と。 (230頁)

 前の木庭著でも書いたが、(ソフォクレスの)アンテイゴネーは見事に反血縁主義だ、という見解である*1
 あくまでも、「個人」を、アンティゴネーはとらえている。

みたびアンティゴネ

 シャープな抽象能力で、とことんクレオンを理論的に追いつめるような知性の持ち主が、家族とか血縁とかにどっぷり染まった原始的なメンタリティの女、であるはずがない。かえって、或る種のポストモダンとかフェミニズムは実はただの集団主義ではないかという尻尾を出させる試金石にさえなっている。 (233頁)

 アンティゴネーこそ知性(知的)だった説である。
 また、クレオンのなんでも男女で区別する、個人でものを考えられない体質が指摘されている。
 これまでのアンティゴネーに対する通説を一気に変えるものではないだろうか*2

「人権」は占有

 これが基本的人権です。これを保障しないと、ほら、あの徒党の解体が徹底しないじやない? だって「自由な言葉」と君たち言ってくれた。精神が自由でなければ「自由な言葉」など出てくるはずもない。自分で判断し自分で考え、そして権威に服さない。本当言うと、これは権利ではありません。占有なんです。どこが違うかというと、権利というのは、いま持っていないものを獲得しうるということです。 (引用者略) 人権は、人権とは言いますが、決して攻撃的には使えません。実は権利ではなく占有だからです(だから「幸福追求の自由」、「自由権」は曖昧です)。われわれは全員アプリオリに精神の自由を持っている。だから今更持っていないものを獲得するなんてことはない。それを侵害されるので、占有のモデルで防御する。 (381頁)

(基本的)人権は、権利というよりも占有だという。
 もしそうだとすれば「人権感覚」という言葉は、案外間違っていないのかもしれない*3

(未完)

*1:ところで、本書では、「アンティゴネー」のほかに、ソフォクレスの『ピロクテーテース』も題材とされている。これについて、

私には少し衝撃的でした。「2500年も昔から、当マンションのように、社会は人間の思うようには論理的合理的な結果にならなかったのか・・」というような・・。ま、気落ちせず、皆さんを見習って今後も奮起します。

というマンション住人の書評https://www.e-mansion.co.jp/bbs/thread/605119/res/225/ が印象に残ったので、ここに記しておく。

*2:ただし、大越愛子はアンティゴネーについて、以下のように言及している(「弔いのポリティクス」http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/dialog/act8_oogoshi.html )。 

国家の論理は、自らに従順か、そうでないかで死者を峻別する。それに対し家族の論理は、兄弟かそうでないかの血の論理で死者を峻別する。このような死者の峻別に、アンティゴネーは抵抗したと読むことができるのではないか。そしてこのような死者の峻別を拒絶し、むしろ国家や家族などの共同体から排除された者を弔い、彼等の記憶を呼び覚まそうとする者こそ、国家の「弔いのポリティクス」の陥穽をも暴くものではないだろうか。

これこぞ俗流の(旧弊の?)フェミニズムではない、知的なフェミニズムの読解ではないだろうか。

*3:ブログ・「とある法学徒の社会探訪」は、「木庭顕東京大学名誉教授は、自著で、占有を土台とする法という概念は究極には形態的感覚的概念であり、論理ではなくイメージによってよく感得されるという趣旨をあちらこちらに示されています」と述べている(「「法と文学」という可能性」https://ameblo.jp/jurisdr/entry-12353388298.html )。こうした「形態的感覚的概念」だとするのならば、「人権感覚」なる言葉も、あながち間違っていないのかもしれない。