アントワーヌ・コンパニョン『寝るまえ5分のモンテーニュ』を読んだ。
内容は、紹介文にある通り、「知識人の教養書として不動の地位を占める世界的名著『エセー』。味わい深いモンテーニュの言葉を豊富に引きながら、その大著のエッセンスを見事に凝縮した40章。本格派の入門書」という内容。
もとはラジオ番組*1がもとになっているという。
特に面白かったところだけ。
不公平と文明
インディオにとっての第二の衝撃は貧富の差である。 (24頁)
インディオが欧州に来たときのこと。
いくつものことでかれらは驚いたという。
その中でも、欧州が貧富の差が激しく、そうして貧困にあえぐ人々が、こうした不公平を耐え忍んで、富める者の喉元に掴みかかったり、その家に火を放ったりしないのが不思議だったという*2。
そのまま日本にも同じことがいえそうではある。
俗語で書くことと、読者
彼がフランス語で書こうと決めたのは、女性に読まれることを願ったからだ。 (66頁)
ただ、彼はラテン語からの引用をやめようとはしなかったのだが(ラテン語は男性ばかりが読める言語だった。)*3
楽しんで読む。楽しんで書く。
対象を完全に知りつくしたと思ったとすれば、それは幻想にすぎない。モンテーニュは、あちこちに手をを出しては、どんなものでもそのほんの一側面だけを扱う。本気で、まじめに、覚悟を決めて書いているというのではなく、あくまでも自分の楽しみのために書いているのであり、ときには以前に書いたことと矛盾することもある (163頁)
そして、魔術のように自分の力では白黒つけがたい主題については判断を中止する。
彼はいつでも軽やかである*4。
(未完)
*1:5分のラジオ番組が一章分に当たるようだ。
*2:本書の訳者の一人、宮下志朗は、ウェブにて次のように書いている(「モンテーニュ『エセー』を読む第12回」https://www.hakusuisha.co.jp/news/n18539.html )。
国王が新大陸先住民に、フランスの感想を問う。モンテーニュは彼らの答えを二つだけ書き留めているのだが、とても興味深い。第一が、屈強な人々が、子供のような王(シャルル9世は若干12歳であった)に従っているけれど、なぜ自分たちで支配者を選ばないのかという疑問で、第二が、貧困にあえぎ、物乞いまで余儀なくされている「半分」が、なぜ富める「半分」に反抗して決起しないのかという疑問である。
ただし、モンテーニュがインディオを理想化している点については、川田順造が厳しい見方をしている(「ヒトの全体像を求めて―身体とモノからの発想―」『年報人類学研究』第1号 2010年 http://rci.nanzan-u.ac.jp/jinruiken/publication/nenpo.html )。
初めて出逢った異郷人は、理解が十分でなかっただけにかえって、ヨーロッパ人の視点で理想化されさえした。 (引用者中略) モンテーニュは、アメリカに長く暮らした友人や、フランスの港町ルーアンに連れてこられた 3 人の「野蛮人」について言われていることを、彼らの一人からあまり忠実でない通訳を通して聞いた話など、極めて限られた知識に基づいているので、それだけになお、彼の視点からの理想化が容易だったとも言える。
*3:「モンテーニュの熱心な愛読者」であったデカルトは、そうした点において、モンテーニュの後継者だった。久保田静香は以下のように書いている(「古典レトリックと『方法序説』-諺・皮肉・本当らしさ-」http://www.waseda.jp/bun-france/vol22.htm (読みやすくなるよう、原文の一部の注記を削除した。))
思い起こすべきは、デカルトが『方法序説』を執筆するさいに念頭においていた読者層である。デカルトの言葉をかりればそれは「すべての人 tout le monde」、──これでは一見あってなきがごとくの規定にみえるが、つまるところ、ラテン語を知らずとりたてて専門といえる知識ももたないが「まったく純粋に自然の理性を働かせることのできる」一般教養人=オネットムのことであり、そこにはとくに「女性」も含まれる。デカルトはこの女性も含めたオネットムたちの知性につねに並々ならぬ信頼をよせていた
*4:モンテーニュは、学問の目的が「自己の判断」を形成するためだとしつつ、一方で、野放図な読書(例えば旅に書物を携行しつつも読まずにいることも自由、といった読書)や楽しみのための読書も奨励している。こうした点について、山上浩嗣は、以下のように述べている(「モンテーニュの「気をそらすこと」とパスカルの「気晴らし」」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006558912 )。
それはモンテーニュにとって,目的論的な思考を超えることによってしか,真の目的には到達できない,ということである。遊戯性,無目的性こそが真の判断形成の条件だというのである。これは,人間をとりまく「世界」があまりにも大きく,人間のわずかな知性や知識の条件で設定される目的に従えば,視野はかえって狭くなる恐れがあるからではないか
彼の「楽しみ」に対する態度は、たいへん奥深い。いうまでもなく、山上は本書の訳者の一人でもある。