「ジャポニスム」と「日本『美術』」との間にあったギャップ -稲賀繁美『日本美術史の近代とその外部』を読む-

 稲賀繁美『日本美術史の近代とその外部』を読んだ。

 放送大学のテキストである。
 近代日本美術史を、西洋や東洋といったまなざしとしての「外部」、あるいは、絵画を中心軸に置きがちな美術史に対する彫刻や陶芸などの「外部」、そういった「外部」から見ていく内容、といえようか。
 稲賀著の中では、頁も少なく、比較的手に取りやすいかもしれない。
 稲賀繁美入門としても、読まれるべき良書である。*1

 以下、特に面白かったところだけ。*2

英米 対 仏 日本美術評価の対立と背景

 かれらの価値観は真っ向から対立していた (35頁)

 お雇い外国人の一人・英国人のウィリアム・アンダーソンは、欧州(大陸)の批評たちのように北斎をもっとも偉大な芸術家の代表格扱いすることは、日本の美術に対する冒とくだとした。
 浮世絵師などより、雪舟などのほうが上だとみなしたのである。
 1886年出版の『日本絵画芸術』でのことである。
 アングロ=サクソン系の日本美術研究者は、現地日本での狩野派などの目利きたちの観賞基準やルネサンスの美的基準を尊重する立場から、浮世絵、そして代表格としての北斎を見下した。*3
 対して、フランスの「自由主義的共和派」の美術評論家たち(たとえばテオドール・デュレなど)は、北斎の美学を梃に、従来の美術アカデミーで支配的だった審美判断を覆そうとしていた。
 後者こそ、マネや印象派の画家を積極的に擁護する陣営の中心人物だったのである。 *4

創造的な誤解

 西洋の文人たちは、ここで東洋の画家が、対象を実見しつつ写生するのではなく、腕に覚えさせた記憶によって素描をなすことを悟った。 (49頁)

 1878年、パリ万博に来た渡辺省亭が、エドモン・ド・ゴンクールらの前で揮毫を行った。
 その際、省亭は実物を見て描くことをせず、「腕に覚えさせた記憶」によって素描を行った。
 ゴンクールら日本びいきの連中は、そのとき初めて、日本の画家は、実際はそのように描くということを知ったのである。

 その方法は、ボードレールらが軽蔑した慣習的な筆さばきであった。


 また、ボードレールらは、技巧を凝らした仕上げより、素描のほうを称揚していた。

 そしてマネは、準備なしに画布に向かい、気に入らない素描を何度も消しては描いたという(これはマラルメの証言による)。

 しかし、北斎を含め日本の絵師は、即興ではなく、何度も修正原稿を貼り替えて製作をしていた。
 日本人は即興制作をするという先入観をマネに植え付けたのは、日本旅行者のデュレではなかったか、と著者は述べている。*5  *6

 「ジャポニスム」と「日本美術」との間にはギャップが存在していたのである。

左右非対称性という「日本らしさ」の発見

 日本側が、それを「売り」にするのは、なおしばらく時間がかかる。 (59頁)

 フランス側は日本美学の精髄を「不規則」という点に見出していた。*7
 しかし、明治最初の出品となった1973年ウィーン博覧会でも、76年のフィラデルフィア博覧会でも、日本側の展示は、青銅器や陶磁器をもっぱら対にし、商品も左右相称に配置しようと腐心している。

 日本美術の特性が左右非対称性とされるのは、むしろ外部からの指摘によってであったのである。*8
 また、貫入(陶器などの細かいひび)なども、ワグネルの指示もあってか、厳禁とされていた。*9
 輸出用磁器には整った形態で、釉薬もすべすべした製品を推奨していたのである。

 

(未完)

*1:今回はジャポニスム関連のところだけを書くが、後半の伊勢神宮八木一夫の章も面白いので是非。

*2:今回扱う内容は、稲賀の「北斎ジャポニズム」(1998)http://www.nichibun.ac.jp/~aurora/pdf/980419-22hokusai.pdf とけっこう重複する所がある。以下、この論文を引用する場合は、「(稲賀 1998)」 と表記するものとする。 

*3:アングロ・サクソン系の批評家、例えばフェノロサが、浮世絵を肯定的に再評価するのは後年になってからの出来事である。

フェノロサが同時に,浮世絵,特に北斎に関して,ボストン美術館時代に際立って肯定的な評価を行い始めていることは,注目に値する。彼の観察によれば,浮世絵とは徳川期「平民階級」の間に生じた,新たな知的活動の産物であった

(伊藤豊「預言者・改革者としてのアーネスト・F・フェノロサ--ボストン美術館在任時の活動を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/110004719211 ) 

*4:

「保守的な」アングロ・サクソンの専門家達が北斎の「卑俗さ」を軽蔑じたのに対して、フランスの「前衛的」批評家達はむしろ北斎の「卑俗さ」をこそ賞賛したが、これはまさにヨーロッパの美術界で当時なお優勢であった保守的でアカデミックで貴族趣味的見解を攻撃するためであった。デュレ、ゴンス、ド・ゴンクールらにとって「卑俗派」とは軽蔑すべき概念であるどころか、むしろ積極的に反アカデミックで「前衛的」な画業の証として捉えられた。

(稲賀 1998)

*5:

似たような完成度の欠如は、しばしばマネの荒々しい筆さばきや一定しないドローイングのテクニックに頻繁に指摘されてきた。このようなマネの明らかな「欠点」もまた、またもやデュレの説にれば正当化され、さらにはマネの長所になってしまう。デュレ日く「もっぱら腕に支えられた筆のみを使う日本の画家には加筆修正等はありえず、最初の一筆で自らのヴイジョンを紙に定着させる。そこには、どれほど才能豊かなヨーロッパの画家も及ばぬ大胆さと優雅さと自信が備わっている。日本人が最初のそして最も完壁な『印象主義者』であると認識されたのは、このヨーロッパでは馴染みのなし、手法と、彼等の特異な趣味のためである

(稲賀 1998)以上、一部引用符等を変えて引用をおこなった。

*6:デュレについては、瓜生愛子「テオドール・デュレの日本・中国旅行と印象派への寄与」http://opac.daito.ac.jp/repo/repository/daito/982/ などを参照。現地(日本)に行った者の強みゆえに、浮世絵と印象派とを強引に接続させる無茶な理論も唱えることができたのである。

*7:

大島清次氏が示したように、オーギュスト・ルノワールの「不均衡」美学の宣言 (1884年)もこのデュレの概念から生まれたものだと理解しうる

(稲賀 1998)

*8: 当時のデザイン理論家のジョン・レイトンは、「日本人が非対称を好むという広く認められたことを論じる」一方で、日本人は対称を使って、他の方法では得られない荘厳さをかもし出している、とも述べている(「英国における日本美術の発見」(細谷千博、イアン・ニッシュ 監修『日英交流史 : 1600-2000 5』、東京大学出版会)347頁 )。当時すでに、日本美術の非対称性以外のデザインにも、英国人の目は行き届いていたのである。以上、この註については2020/2/13に追記した。

*9:ワグネルはどういう人物か。

1884年には東京職工学校(現東京工業大学)の外人教師となり、施設・設備も同校に移され、吾妻焼は、「旭焼」と名が改められた。旭焼はワグネルを中心として研究が進められ、日本画のもつ筆の運びと多彩な色彩における濃淡表現をそのまま損なうことなく、絵付された陶器である。 ワグネルは釉薬の下に絵付けを施す「融下彩技法」を用いて、素地と絵が一体となった貫入のない美しい肌を持つ陶器の製作法を開発した。

(「認定化学遺産 第038号 日本の近代的陶磁器産業の発展に貢献したG.ワグネル関係資料」『化学遺産認定 第7回』http://www.chemistry.or.jp/know/pamphlet_7.pdf ) このように、ワグネルの日本陶磁器産業に貢献した功績は大きい。

 ワグネル来日は1881年なので、早く見積もっても、影響するのは1881年以降と考える必要がある。