結局のところ「聖徳太子」って何がスゴかったのか、というような話。 -東野治之『遣唐使』&『聖徳太子』を読む-

 東野治之著『遣唐使』と『聖徳太子』を読んだ。(厳密には再読なのだが)

遣唐使 (岩波新書)

遣唐使 (岩波新書)

 
聖徳太子――ほんとうの姿を求めて (岩波ジュニア新書)

聖徳太子――ほんとうの姿を求めて (岩波ジュニア新書)

 

  内容は、それぞれ紹介文にある通り、

国家の使節として、また留学生・留学僧として海を渡った人々は何を担い、何を求め、何を得てきたのだろうか。遣隋使と遣唐使を統一的にとらえる視点から、七、八、九世紀の約三百年にわたる日本古代外交の実態と、その歴史的な意義を読み解いていく

 

誰もが知っているのに、謎だらけの存在、聖徳太子。偉人か、ただの皇子か、「聖徳太子」か「厩戸王」か…、彼をめぐる議論は絶えません。いったいなぜそんな議論になるのでしょう。問題の根っこを知るには、歴史資料に触れてみるのが一番。仏像、繍帳、お経、遺跡などをめぐり、ほんとうの太子を探す旅に出かけましょう


 というもの。
 それぞれ実証を踏まえて書き記されている新書である。
 後者は手堅い実証を踏まえつつ、そこから中々大胆に踏み込んだ仮説を立てているように思うが、やはり読んでみてほしい一冊。
 以下、各々面白かったところだけ。

「日出づる処」とは東のこと

 かつては「日出づる処」と「日没する処」という対照的な言い回しに、倭の隋に対する優越意識を見る解釈が普及していた。この説明は一見まことしやかだが、「日出づる処」「日没する処」は仏典の『大智度論』(巻十)に使われている表現を借用したもので、「東」「西」の文飾に過ぎず、とくに優劣の意味は込められていない (『遣唐使』、25頁)

 「日出づる処」というのは「東」の文飾(仏典由来)であって、優劣の意味はない、というのが著者の説である。
 そして、怒ったのは「天子」という名乗りであったとする。*1

遣唐使船が難破する政治的背景

 出発や帰国の時期を自由に選ぶことが許されなかったことに大きな原因があった。そのような条件に拘束されない遣渤海使の往来では、季節の気象条件を利用して、成功率の高い航海が逹成されているし(上田雄『渤海使の研究』)、九世紀の外国商船の往来には、日本人が同乗することも多かったのに、目だった遭難が起こった様子はない。渡海で水没、遭難した人々の多くは、国際政治や外交の犠牲者だったというべきだろう。 (『遣唐使』、100頁)

 なぜ遣唐使の船は頻繁に水没、遭難したのか、という話である。
 端的に言えば、政治的理由で水没していったのである。*2 *3

太子の「功績」①:否定の論理

現実を肯定してなんの疑問も持たない当時の人々にとって、こう明言することは革命的なことだったでしょう。 (『聖徳太子』、114頁)

 世の中のことは空しく仮のもの、仏法だけが真実、という聖徳太子の主張である。*4
 それは伝来当時の人々には革命的だった。
 家永三郎が『日本思想史に於ける否定の論理の発達』において、現実を超えて心理を探る否定の論理は太子に始まる、と論じているほどである。*5

太子の「功績」②:女人成仏

 その法華経を広めた太子に、女性たちの信仰が集まったのはよく理解できます。 (『聖徳太子』、203頁)

 橘三千代などの女性たちは、太子が法華経などに通じ、女性の救済に思いが深かったことを理解していた。
 本来、阿弥陀浄土へ往生できるのは男性だけであった。
 しかし、法華経の一章を占める薬王菩薩本事品には、女性も男子に変じて往生できると説かれていたのである。
 女性を救う法華経、そしてその法華経を広めたのが太子、となれば、信仰が集まるのも道理、というわけだ。*6

 

(未完)

*1:河上麻由子『古代日中関係史』(中央公論新社、2019年)は、この「天子」という名乗りについて、仏典に由来した用語であり、菩薩天子(仏教を尊ぶリーダー)という意味だったとしている。河上はすでに2013年にはこの説を提示しているようで、それを参照したウェブページ「日本史のとびら」の記事http://www2.odn.ne.jp/nihonsinotobira/sub6.html は、

煬帝が倭の国書に不快を示したのは、中華思想の「天子」を倭王が僭称して対等外交を求めてきたからでなく、仏教の後進国たる倭の王が、仏教先進国の隋の皇帝と同じく「天子」を名乗ったことに原因があったと考えられるのです。

としている。

 もっとも、さかのぼると、河上は既に2004年時点で、自説(の原型)を提出してはいるのだが(河上「遣隋使と仏教」https://ci.nii.ac.jp/naid/110002366011 )。 

*2:佐藤信弥(先生)も、本書『遣唐使』書評https://blog.goo.ne.jp/xizhou257/e/7149f92fdeb02cab3e1f880993216285で以下のように書いている。

遣唐使船は従来考えられていたのよりも高度な技術により建造されていたことが明らかになってきた。遭難が多かったのは朝貢・朝賀使節としての外交的な制約により、航海に適切な出発・帰国時期を選べなかったため。

ところで、その書評に「辻善之助という人の説だということですが」という記述があるのだが、やはり、中国古代史の研究者には辻善之助はマイナーなのだろうか。辻は、特に日本仏教史ではメジャーなのだが(但し、佐藤の記事は2007年時点のものである)。

*3:上田雄も、「遭難・漂流は唐からの帰国の際に起きています。これは、帰国の際は強い冬の季節風を利用しているので比較的弱い夏の季節風を利用する往路よりも遭難、漂流することが多かったからだと考えられます」と述べている(「遣唐使・その航海」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009431812 )。

*4:実際の聖徳太子が存在するとしても、どの程度の業績があったのかは研究者においても判断が分かれており、今回の記事で書いた太子の「功績」も、ある程度は、後世仮託されたものかもしれない。

 三経義疏にしても、太子自身が書いたということは、現段階ではまだ確実というわけではない。ブログ・「moroshigeki's blog」の解説http://moroshigeki.hateblo.jp/entry/20090103/p1によると、

(『国産』が何を表すかにもよるが)「国産」で決定とは言っていない。渡来人による述作なども含めた再検討が必要。

とのことである。

*5:家永の『否定の論理』には、末木文美士の指摘するように、キリスト教ヘブライズム)における「否定の論理」が想定されているものと思われる。(末木「家永三郎 戦後仏教史学の出発点としての否定の論理」、オリオン・クラウタウ編『戦後歴史学と日本仏教』、法蔵館、2016年 )。一方で、家永自身、国体論からは脱していても天皇制国家の宗教性からは自由ではなかったのではないか、との指摘も存在する(星野健一「オリオン・クラウタウ編『戦後歴史学と日本仏教』」http://www.hozokan.co.jp/cgi-bin/hzblog/sfs6_diary/2337_1.pdf、222頁)。

*6:植木雅俊は、

日本でも仏教伝来以来、『法華経』は重視されてきました。飛鳥時代奈良時代を見ても、聖徳太子は『法華経』の注釈書『法華経義疏(ぎしょ)』(六一五年)を著し、七四一年に創建された国分尼寺(こくぶんにじ)では『法華経』が講じられました。尼寺ですから、女人成仏が説かれた経典として注目されたのでしょう。

としている(「思想として『法華経』を読む」https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/75_hokekyou/guestcolumn.html なお、一部の引用符を省略して引用した。)。日本における法華経信仰は遡れば確かに太子に行き着くことになる。

 一方、インド古典学者・小林信彦による、日本的「女人成仏」に対するインド仏教的観点からの批判も存在する(小林「日本人の考えた「女人成佛」 執拗なまでの異文化拒否」https://ci.nii.ac.jp/naid/110004698155 )。興味のある人は読んでみてほしい。