日本美術は中国美術から何を学び、何を学ばずに独自の道を歩んだか、という話(主に後者) -戸田禎佑『日本美術の見方』を読む-

 戸田禎佑『日本美術の見方 中国との比較による』を読んだ。

日本美術の見方―中国との比較による

日本美術の見方―中国との比較による

 

  内容は、紹介文の通り、「日本の美術が中国の周辺地域の美術であることから、日本美術の個性・独自性を、中国美術との比較によって検証。作品に即して日中絵画鑑賞のあり方をやさしく解説、美術史の再構築を提起する」というもの。
 佐藤康宏の書評にあるように、便宜上、日中芸術がやや類型化されてしまっているが、その点を踏まえてもなお、良書というべきである。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

リアリズムと装飾性①

 中国絵画は巨視的には、自然主義的なリアリズムが基調になっており、そのことが、水墨画を発生させ、同時に装飾性、工芸性からの訣別をももたらしたと考えられる。筆でコントロール不可能な截金は、中国ではあくまで工芸の手法であって、筆による金泥こそが絵画における金の使用の原則であった。 (63頁)

 日本絵画(界)は、水墨が光を含む空間の最も有効な表現手段の一つであるということを、十分に理解できなかった。
 すなわち中国絵画の中にある「自然主義」を十分に理解しなかったのだという。
 そんな日本では、絵画は工芸性と未分化のままに展開し、それなりに独自の洗練を獲得していった。
 截金技法を使った仏画は、その好例だという。*2 *3

リアリズムと装飾性②

 (引用者注:日本で)絵画をこのように、デザイン家具の機能と融合させてしまう発想こそ、床の間のサィズに合わせて、「廬山図」を切断した動機と通底する。 (引用者中略) 中国美術の基本に恐るべきリアリズムがあることは確かであり、それはつねに凝視されることを期恃していた。「清明上河図巻」の魚も「瀟湘臥遊図巻」の蘆も、見えるがままに画かれたというよりは、あるがままに画かれたというに近い。そして、また一見、象徴的な表現のようにみえる節略の多い南宋絵画でもその基本はゆるがない。それをさらりと表面的に受容しエモーショナルな世界に翻案したのが、擬南宋的絵画なのである。 (145頁)

 著者は、中国美術が凝視されること、そしてそれに足るリアリズム・空間性を前提にされており、それは北宋はもちろん、南宋絵画においても同様だとする。
 それに対し、日本美術は、その表面的な感覚だけを受容したとしている。
 じっさい日本では、表面的に南宋画をなぞった「擬南宋的絵画」*4が多く観賞されたという。*5
 それにしても、引用部で紹介されてる玉澗の「廬山図」の件はつくづくすごい。*6

山水と宗達

 山水的空間とは言えないとしても、宗達画のなかで自然景を表現した数少ない作品の一つ、「関屋澪標図屏風」(静嘉堂文庫美術館)における山体の描写が、琳派作の「蔦の細道図屏風」(萬野美術館)ではさらに抽象化し、"蔦の細道"という自然景観は、ほとんど草花図のモチーフを囲む枠に変容している。ここには積極的な"山水的"なものに対する拒否への展開があるとみてよい。 (123頁、一部図番号等を削除して引用)

 山水画のような空間性を宗達は受け付けなかった、と著者はいう。
 そして、宗達が写実に根差した空間性を受け入れることなく、視覚効果としての装飾性を突き詰めた点を、著者は高く評価している。*7 *8
 なお、2020年現在、萬野美術館は既に閉館し、「蔦の細道図屏風」は相国寺承天閣美術館)にある。

アクションペインティングの先駆

 つまり、中国絵画というのはある意味では大変早熟で、二十世紀の西欧の芸術家がやっているようなことを八世紀に試みてしまったわけである。この撥墨によって、水墨画は、その墨面の拡がリや濃淡の諧調というものにめざめていく。 (161頁)

 水墨は、アクション・ペインティングのような大変はげしい技法から始まり、そこから、濃淡の諧調を獲得するに至った。*9
 西洋の先を行っていた、というのが、中国絵画愛好者や研究者の自慢するところである(あるある)。

 

(未完)

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*1:「中国絵画と日本絵画の比較に関する二、三の問題 戸田禎佑『日本美術の見方』を受けて」(『絵は語り始めるだろうか 日本美術史を創る』、羽鳥書房、2018年)において、佐藤は戸田著から抜け落ちてしまっている点を指摘している。具体的には、①元・明以降の絵画への言及が少ないこと(宋代至上主義と言えようか)、②中国・江南画と日本絵画、唐代絵画と平安絵画、これらの間にある同質性に注意が払われていないこと、などである。佐藤の書評は大変ためになるので、戸田著をお読みになった方はぜひこちらもご一読を。

*2:ただし、截金の使用が必ずしも平面性(≒非自然主義)につながるわけでない点について、小林達朗が指摘している(「東京国立博物館蔵国宝・普賢菩薩像の表現および平安仏画における「荘厳」」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006480270、11頁)。截金は奥深い。

*3:佐々木剛三「資料収集ということ」(https://www.kyohaku.go.jp/jp/gaiyou/gakusou/num011.html )によると、昭和30年頃の「当時の常識」では、截金は日本独自の技法であり、まさか中国にあるわけがない、という認識だったのだという(当該論文135頁)。実際、中国の仏画にもその技法が見られることは、過去に著者(戸田)が指摘している事柄である。もちろん、戸田自身は、「中国・宋代の仏画においても金あるいは截金の使用は限定的」とする立場である(小林達朗「研究ノート 東京国立博物館所蔵 国宝本・虚空蔵菩薩像の表現」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006480235 、217頁) 。それに対し、さきほど紹介した佐藤康宏の書評は、そうした見方に対して反論を試みている。詳細は当該の書評を参照。

*4:南宋絵画の優品は日本にはあまりに来なかったため、その需要を補うように日本で愛好された、南宋絵画「風」の絵画。著者・戸田によると、寧波や日本で作られたと考えられる。

*5:藤田伸也は以下のように述べている(「対幅考--南宋絵画の成果と限界」https://ci.nii.ac.jp/naid/110000500108 )。

対幅絵画が日本で愛好された大きな理由は、この単純さと装飾性、そして説明的であることに求められる。 (引用者略) 大きな絵画史の流れから見ると、南末時代の対幅絵画は、三次元空間を平面上に創出することを本意とする古典的な写実主義の終焉を意味している。それは同時に、絵画の装飾性・平面性の再発見でもあった

このように、比較的本書の内容と親和的な論述である。また一方で、次のようにも述べている。

彼ら(引用者注:元代の画家たちのこと)は南宋絵画の卑俗さを否定し、対幅形式も嫌った。彼らが好んで用いた画面形式は画巻であり、それは対幅と対照的に親密な関係の少人数が鑑賞するのに適した形式であった。

こうした「六朝絵画に学んで著しく古様で、不自然なはど視点は移動する」絵によって、「南宋絵画の卑俗さからの脱却を意図」したという。こうしたことからも、やはり、元代の絵画に著者は正面から言及するべきだったのではないか、と思わなくもない。

*6:玉澗の「廬山図」について、所蔵している岡山県立美術館は、次のように解説している(http://jmapps.ne.jp/okayamakenbi/det.html?data_id=692 )。

本図がある時期切断されたものであることは、原図を写した《玉澗廬山図模本》(根津美術館)が伝えている。この模本によれば、もとは瀑布を中心とした構図であった。また、全体の表現としては、墨の暈しや滲みで形作られた山の形態に、渇筆で景が添えられていたようである。 (引用者略) 切断の経緯としては、京都・広隆寺の西林坊から佐久間将監真勝が原図を入手し、承応2(1653)年に茶掛の掛料とするため、狩野探幽と合議のうえに行ったものであるという。このとき切断して3幅としたうちの一つが本図であり、酒井忠勝の手に入った後、徳川将軍家に献上された。

 門脇むつみ『寛永文化肖像画』(の174、175頁)は、「廬山図」に関する戸田の意見に肯定的である。その意見とは、具体的には、①切断の際に探幽が加筆したことが考えられること、②「廬山図」は上下にも切断され、樹叢を隠すように農墨で塗りつぶされており、本来の空間構成では、最も手前にあった樹叢と奥の山並みが見えなくされ、微妙な筆致の違いも判別不可能となったこと、③その結果、廬山を取り巻く空気や光の表現が失われることになった(空間性が消えていった)こと、④佐久間将監らは、自分たちの絵画的趣味、つまり、「擬南宋的絵画」に見られるような、絵の「優雅な雰囲気」の方をなにより優先したこと、などである。さらに門脇は、江月宗玩の『墨蹟之写』を参照して、旧来の説について少々訂正を行っているので、気になる方はお読みください。

*7:玉蟲敏子は、「中国唐代の美術の洗礼をほとんど全身に浴びた奈良・平安時代以降、精神的であるはずの仏教美術や崇高な中国美術もまた『座敷飾』と呼ばれる室内装飾の空間に取り込まれてきた」のであり、「かざりの空間に生きることは、内部の絵画表現を損なうどころか、かえって水墨の美しさ、観音の慈悲、動物親子の情愛を引き立て、その荘重的な評価を高めていたことを忘れてはならない」と指摘している(「かざりと装飾 ――日本美術からのアプローチ――」 http://geiren.org/news/2017/03.pdf )。装飾=表層的(深みがない=非精神性)、という固定観念に気づかせてくれる重要な指摘である。そして「日本美術において装飾的であることは、精神性や聖性と対立するものではなく、それらを含めた造形藝術の全体を包み、支える基盤であった」とまとめている。琳派研究者の重要な言及として、引用しておく。

*8:ところで、文化比較の基本として、やはり対象は三つあった方がよいと思うのだが、日本と中国以外で、もう一か所、比較できる文化はないだろうか。朝鮮でもいいだろうが、他に適した対象があれば、ぜひ知りたいところである。チベットベトナムもいいかもしれない。

*9:中川真一は次のように述べている(以下、諸々の事情で、「溌墨」と書き換えて引用していることを、あらかじめ断っておく。原文では「溌」ではなく、その正字が使用されている。)。

唐代の溌墨はだいたい安禄山の乱以後に盛んになったものである。溌墨の画家として王洽、張志和らが有名であり、彼らの制作工程も注目する。封氏見聞録、唐朝名画録、歴代名画記など当時の文献には、いずれも酒を飲み酔いに乗じて絵を描く、とある。さらに笑い吟じたり、音楽や歌の伴奏に調子を合わせながら、画面に注いだ墨汁を足でけり手でなで布でこすったり、あるいは刷毛のかわりに自分の髻などを用いたりして、形を作り濃淡をあらわす。最後に筆で形を整えることもある。 (引用者中略) こうして画面に注がれた墨のかたまりが乾いて、山となり石となり雲となりみずとなっていくさまはさながら「造化のごとく」、完成した画面には「墨汚の迹」をのこさなかったという。ほとんど曲芸的な技法である。現代のアクション・ペインティングに近い感覚を、この時代の溌墨画家はもっていた。

以上、中川の「長谷川等伯《松林図屏風》における余白の考察」(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9386865 )より引用を行った。また、中川は、「溌墨」を使用した画家には、「安禄山の反乱以後の不安と混乱の時代の中で、官僚への任官を断念したり辞職したりして処子逸民となった人々が多かった」とも指摘しており、大変興味深い。水墨の「初期衝動」にはこんな背景があったのである。